<<死ぬのは「がん」に限る、ただし、治療はせずに>> 

3人に1人はがんで死ぬといわれているが、医者の手にかからずに死ねる人はごくわずか。 

中でもがんは治療をしなければ痛まないのに、 
医者や家族に治療を勧められ、 
拷問のような苦しみを味わった挙句、やっと息を引きとれる人が大半だ。 

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         ◇大往生したけりゃ医療とかかわるな   (幻冬舎新書) [新書] 
           中村 仁一 (著) 


つまり、年をとったら延命治療はするな、ということ。 

現代の医療でも完治できない病気があります。年を取ってそうした病気になったら、自然に死を迎えるのがいい。 

延命治療をすることで、若干の延命と引き換えに地獄が待っているのです。 

「できるだけの手を尽くす」が、「できる限り苦しめて、たっぷり地獄を味わわせる」とほぼ同義になっている。 

介護においても、無理やり食事を食べさせたり、栄養チューブを鼻から突っ込む。親切のつもりが、人によってはありがた迷惑。 

無理やり飲ませたり食べさせたりせず、穏やかな"自然死"コースにのせてやるのが本当の思いやりのある、いい"看取り"のはずです。 

今のうちに自分の死を考えておく必要があるようです。 

ボケてしまったら、無理やり延命治療されかねない。 

第1章:医療が“穏やかな死”を邪魔している。 
 - 医療に対する思い込み 
 - 「あなたは確実にこうなる」と断言する医者はとんでもないハッタリ屋 
 - 本人に治せないものを他人である医者に治せるはずがない 
 - ワクチンを打ってもインフルエンザにはかかる 
 - 解熱剤で熱を下げると、治りは遅れる 
 - 鼻汁や咳を薬で抑えるのは誤り 
 - 「自然死」の年寄りはごくわずか 
 - 介護の“拷問”を受けないと、死なせてもらえない 

第2章:「できるだけの手は尽くす」は「できる限り苦しめる」 
 - 「お前なんか、そうやすやすと死ねんからな」 
 - 極限状態では痛みを感じない 
 - 「自然死」のしくみとは 
 - 家族の事情で親を生かすな 
 - 長期の強制人工栄養は、悲惨な姿に変身させる 
 - 鼻チューブ栄養の違和感は半端じゃない 
 - “老衰死”コースの目安は7日~10日 
 - 食べないから死ぬのではない「死に時」が来たから食べないのだ 
 - 「死に時」をどう察知するか 
 - 死ぬ時のためのトレーニング 

第3章:がんは完全放置すれば痛まない 
 - 死ぬのはがんに限る 
 - がんはどこまで予防できるか 
 - 「がん検診」は必要か 
 - がんはあの世からの“お迎えの使者” 
 - 「早期発見の不幸」「手遅れの幸せ」 
 - 「がん」で死ぬんじゃないよ、「がんの治療」で死ぬんだよ 
 - 余命2,3ヶ月が1年になった自然死の例 
 - 手遅れのがんでも苦痛なしに死ねる 
 - 医者にかからずに死ぬと「不審死」になる 
 - ホスピスは“尻拭い施設” 
 - がんにも“老衰死”コースあり 
 - 安易に「心のケア」をいいすぎないか 

第4章:自分の死について考えると、生き方が変わる 
 - 「自分の死を考える集い」は16年目に突入 
 - 「あなたもお棺に入って、人生の軌道修正をしてみませんか」 
 - 「死生観」に大きく影響した父の死にっぷり 
 - “生前葬”を人生の節目の“生き直し”の儀式に 
 - 延命の受け取り方は人によって違う 
 - 「死」を考えることは生き方のチェック 
 - 意思表示不能時の「事前指示書」はすこぶる重要 

第5章:「健康」には振り回されず、「死」には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がける 
 - 生きものは繁殖を終えれば死ぬ 
 - 医者にとって年寄りは大事な「飯の種」 
 - 健康のためならいのちもいらない 
 - 生活習慣病は治らない 
 - 年寄りはどこか具合の悪いのが正常 
 - 検査の数値は微妙なことで変わる 
 - 基準値はあてになるのか 
 - 病気が判明しても、手立てがない場合もある 
 - 年寄りに「過度の安静」はご法度 
 - 人は生きてきたように死ぬ 





<<自宅で大往生 ~「ええ人生やった」と言うために>> 

福井県の集落で診療所長を20年近く務めている医師が、「家で逝く」ことの意義を説く。人は本来の居場所=家で亡くなるとき、それまでの人生を凝縮したかのような姿を見せるとし、家がもつ不思議な力が食欲増進や精神安定、痛みの緩和をもたらすこともあるという。 

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◇ 『自宅で大往生 ~「ええ人生やった」と言うために』(中村伸一著) 
   中公新書ラクレ(中央公論新社) 

先ほど、深夜零時ちょうどに、携帯電話のコール音が鳴りました。 
私が医者として長年診てきた八七歳、膵臓(すいぞう)がん末期の患者さん宅からです。在宅療養が続いていましたが、いつ逝ってもおかしくはない状態でした。息子さんからの電話で、「もう息をしていません」とのことです。 

私は落ち着いて、しかし急いで車のハンドルを握り、そのお宅に駆けつけました。親族も大勢集まっている中で、ずっとお馴染みの患者さんであったおばあちゃんを診て、死亡を確認しました。 

「おばあちゃん、さようなら。おつかれさまでした」 
私はお別れの挨拶を言い、死後処置をしました。そして、長きにわたって献身的な介護をしてこられた息子さんご夫妻にも「おつかれさまでした」と労いの言葉をかけます。静かにすすり泣く声が、あちこちから聞こえます。 

私は今一度、おばあちゃんに声をかけました。「そのうち、僕らも逝きますからね」、すると、泣いている親族の方々から、ちょっぴりクスクスいう声が聞こえます。 
悲しくも、おかしい。そんな空気が流れ、少し場が和んだ様子のお宅を後にします。 

診療所で死亡診断書を書き、今、帰宅しました。午前一時四〇分。なんとかみなさんへの原稿に向かおうとしましたが……なかなか言葉がまとまりません。 
実は私のような職業の者でも、長くおつきあいのあった患者さんの看取りは、ひとしお感慨深いものがあります。いつの間にか、患者︱医師の関係だけではない、温かい人間同士の心の交流が生まれているからです。 

医師としてはきちんと仕事を果たします。けれども、仕事の役割だけでは納まらない感情がどうしても湧き上がり、完全には抑えきれません。もうあのお宅に、定期的におばあちゃんの往診に行くこともなく、冗談を言って笑い合うこともないのです。 
年々親しい人たちの看取りが多くなりました。来し方を振り返ってみれば、こんなに深く長く地域の医療に関わって、家で逝く人の看取りまで行うことになろうとは、思ってもみませんでした。 


医師になって三年目の若造だった平成三(一九九一)年、私は初めてへき地医療に携わり、それからあっという間に一九年が経ちました。鳶(とび)が鳴き、夜空一面こぼれるように輝く星と蛍が自慢の、福井県おおい町名田庄(なたしょう)地区が私のホームグラウンドです。 

野山に囲まれ、懐かしい日本の原風景が残る名田庄は、人口約三〇〇〇人、高齢化率(六五歳以上の人口の割合)がおよそ三〇%とお年寄りの多い地域です。ここでひとり医師として働く私は、人気コミック『Dr.コトー診療所』(山田貴敏著)の主人公ならぬ、「ドクター陸のコトー(孤島)」などと呼ばれることもあります。 

最近、この土地の人が私のことを、よその人に紹介するのを偶然聞いてしまいました。「借金と夫婦喧嘩以外なら、なんでも相談できる先生だよ」と。しかし最初からそんなよろず医者だったわけではありません。 

私は二八歳で赴任した当初から、三〇〇〇人の医療を担う「名田庄診療所長」というなんとも責任重大なポジションに就いています(実は今もその肩書は変わっておらず、万年所長のまんまです)。まだまだ医師として未熟だったのに、年の割には責任ある肩書をいただいたわけですが、反面この立場にやりがいも感じました。やる気満々で「自分にできることはなんだろう?」と自問しながら、ずっとこの土地の人たちを診てきました。 

そうしてみてわかったことですが、地域医療というのは、単に診療所にやってきた患者さんをその場で診るということにとどまりません。個々の患者さんの人生に寄り添い、その背景やご本人の考え方、地域特有の健康観などに沿った対応が必要だからです。 
そのため、地域の人々の暮らしの中の必要性を考え、たとえば医療だけでは手の届かない場合には、保健あるいは福祉(おもに介護)関係者や住民ボランティアとの連携など、地域全体を包括的にケアする体制やシステムを一つひとつ、つくってきました。 

そんな中、私は早い時期から名田庄に住むお年寄りの強い「思い」に気づいていました。それは病院ではなく「家で逝きたい」という願いです。今でも名田庄では、おそらく九割以上の方がそう願い、家族も「できることなら、家で看取りたい」と考えていると思います。 

核家族化が進む都会でマンション暮らしをしている人には想像ができないくらい、“家”に対する思い入れが深い土地柄なのです。実際のところ、昔の日本では家族に囲まれて、住み慣れた自分の家で逝くのがごく自然で普通のことでした。 
私も幼い頃、祖父が自宅で亡くなったのを覚えています。そしてその体験は、今となっては貴重な学びの場であったと感じています。自分をかわいがってくれた祖父がいなくなるのは、とても淋しくて悲しくて、つらいことでした。だからこそ、徐々に衰弱し最期を迎える場面に居合わせたことで命の重みと大切さを、知性ではなく感性でしっかり受け止めて、理解できたと思うのです。 

しかし、都会でなくとも病院で亡くなることが当たり前になった現代では、家で逝き、看取るという選択肢が消滅しかけています。私自身、「家で逝きたい!」をどのように支えればよいのかを模索してきましたし、今現在も模索中です。 

そうして培った“家逝き”の経験やエピソードを、頼まれて一般の方向けに講演する機会が最近増えてきました。死についてのお話というと、どうしてもしんみりしそうなものです。ところが、なぜか「いやあ、先生のお話を聞いて、元気が出ました!」と、高齢の方にハツラツと笑顔で言われることが多々あり、私は本当にびっくりしています。 

実は名田庄ではなくても「病院で亡くなるのは仕方がないが、本当は家で逝きたい」と思っている“隠れ家逝き希望”の人が多いのではないでしょうか。 
ただ、病院でなくては医療や介護の面で不安だという人も、少なくないと思います。しかし今は、たとえば末期がんの在宅ケアでも、痛みのコントロールにはいろいろな方策があります。一昔前と比べると、介護保険による在宅サービスもずいぶん充実してきました。 

また、私の仕事は診療所での外来診療がメインです。ですから終末期のみを診るターミナルケアやホスピスケアの専門医とは違い、多くの場合、日常生活を元気に過ごす姿、病気になり診察にいらっしゃる姿を見てきた方々を看取っています。 
この経験を通して、「生き方」は「逝き方」だと感じるようにもなりました。 

多くの場合、人はその生き様を凝縮したように亡くなっていきます。死は避けて通ることのできない道ですが、決してつらく悲しいことばかりではなく、生き切ったことの充実したゴールであったり、幸せな迎え方があったりすることにも気づかされました。私は人生の先輩方から、知らぬ間に医療の範疇を超えた「生と死の教育」を受けてきたのかもしれません。 

そういうわけで、病院とはまた違う「家での逝き方」について、ささやかではありますが、これまでの私の経験から得たものをみなさんと共有したいと思い、本書を著すことにしました。家で逝きたい人やそのご家族の選択肢のひとつとして、少しでもお役に立てたら幸いです。 

(まえがきより)