円高から円安への屈折点に遭遇するいま、歴史を紐解きながら、これからに想いを馳せてみたいと思います。 

幕末、初めて体験する為替レートに苦慮する男たち、幕府崩壊の真実を解明する。 
徳川幕府の崩壊は、幕末の薩長の活躍があまりにクローズアップされているので、それがために徳川幕府が崩壊したと理解している人も多いと思うが、本書を読めば、半分は自滅したことが分かると思う。 
官軍が江戸城に入城したとき、江戸幕府の金庫には金がなかったというのも、頷ける話である。 


◇大君の通貨 幕末「円ドル」戦争   文春文庫  佐藤 雅美著 

     120311

江戸幕府の通貨制度は3貨と言って、金、銀、銭の3種でした。(複数本位制度) このうち我々に馴染みのある金製の小判は定位貨幣であり、1両と定められていますので、江戸幕府は金本位制度であるとも言えます。  

1609年に幕府は金1両=銀50匁=銭4貫と公定比率を定めますが、金銀相場は小判の改鋳等もありなかなか定まりませんでした。 
そうした経緯の中、1765年に明和5匁銀が発行され12枚つまり60匁で1両と定めると言う銀貨の定位貨幣が発行されました。 これはつまり金本位の中で金銀交換比率が決められてしまうと言う事になります。 次いで明和2朱銀が発行され明確に2朱と言う定額なものになります。 

1両=4分=16朱と言う風に以前の米国株式市場の呼値のように4進法になっていますので、明和2朱銀は8分の1両と定められたのでした。これには大きな意味があります。 
切り売りしていた銀が貨幣となる事によって銀の価値そのままでは無く、金の代用通貨となった事を意味します。 もう少し言えばこれが紙幣であっても木片であっても幕府の刻印さえあれば通貨として通用するようになったと言う事です。 ここでは銀地銀を銀相場で売却せずとも明和2朱銀8枚あれば金1両と取り替えて貰える金兌換通貨となったと言えます。 

こうなると銀貨は銀地銀の価値と無関係になりますから、幕府としては流通する銀貨の量目を低下させて行けばその分財源が潤う事になります。 そして実際にそうして行ったのです。 「幕末外交文書」によると1818年から40年間の間に合計1797万両、年平均45万両の益金を銀の量を減らすことによって(出目)稼ぎ出していたそうです。当時の幕府の歳入は120万両程度であったので益金は歳入の約37%に達していたと言う事です。(幕末ニッポンより)  

天保小判(1837年)は重量11.3g 品位57% 銀も混じっていますが、金は6.44g 
天保1分銀(1837年)は重量8.6g 品位99%、4分で1両ですから4を掛けると34.4g 
金と銀の交換比率は 6.44:34.4 = 1 :5.34となります。 
しかしこれは金銀地金の交換比率では無いのです。 

この当時世界の金銀交換比率は約1:15でしたので重量による交換比率だけに着目すると日本は金の非常に安い国である事になります。  
教科書でも日銀HPでも日本の金銀交換比率がおかしかったように記述されていますが、正確な記述ではありません。 こうした日本の特殊な国内事情の中、ペリーは黒船にメキシコドル銀貨を抱えて日本にやってくる事になります。 

日本の銀貨は銀の重量に合わせた価値で決まっている訳では無く、あくまで1分銀が4枚あれば金貨と交換できると言う金本位制度下における紙幣と同じものでたまたま銀で出来ていただけの物でした。 

ここで不幸にも開国を迎えるわけですが、外人から見れば銀貨と銀貨を同重量で交換できれば日本の金は世界相場の3分1と言う事になり大儲けが出来ると言う訳です。 
これが幕末の金大流出、金の国ジパングと言う訳ですね。 

金大流出が何故どのようにして起こったか、丁寧な時代考証を交えながら小説化したのが「大君の通貨」です。教科書では習わなかった日本史があります。