現代の若者は、強欲ではなくなった。無気力とか、草食とか、あきらめとか、その辺の類とは違う。 
「さとり」と云うには大袈裟かもしれないが、社会との関わりに達観した部分があるのは事実だ。 
身分相応の生き方をしようと彼ら世代の多くが感じていれば、それが彼ら世代の生き方のメジャーになるのである。勿論、猛勉強でエリート集団に入ろうとする若者もいるだろうが、彼らは少数派に過ぎない。 

このような世代が生まれたことを、「ゆとり教育世代」と云う概念で捉まえようとするには些か無理がある。 
幾つかの社会的条件が出揃うことで起きる現象なのだと思う。 
一つは、経済的ハングリーさが求められる条件が殆どないのである。 
親世代だけでなく、祖父母世代も、彼らに経済的重荷を背負わせる必要のない世界を既に築き、孫子には生活の苦労をさせない家庭教育が行き届いた。 
彼ら自身は、自己実現等とは程遠い世界に生きてきたので、自己実現の世界が暗中模索のカオスの世界であるかどうか知る由もない。 
一種、あこがれがあるだけに、推奨する傾向さえある。 

このような家庭環境や社会環境があり、他人と接するツールが行き届き、多くの情報に触れる機会も増えた21世紀は、濃密な人間関係が構築されるより、淡白な人間関係を浅く広くと云うものに変えていっても、何の不思議もない。 
多くの情報が、彼らに知識への渇望と云うチャンスを奪った可能性もあるだろう。 
しかし、苦労して、知り得た情報が、単に傷つけられる現実に行きあたるのであれば、敢えて傷つく必要もないだろう。濃密な人間関係が人を育てると云う言説も、謂わば、実証不可能な幻想であり、他の世代に説教できるほど、確証を持って語れる人は少ないだろう。 
その上、彼らの育った世界には、成長しなければどうにもならない、切迫したニーズが存在しない。 
また、理論的に考えても過度の競争原理は他人や他国の利益を横取りするようなもので、そこまで争って入手しなければならない必然性が、そこにはない。 

彼らが、マクロ経済において、日本や他の先進諸国の資本主義が限界に来ている、と悟っているかどうかまでは判らないが、肌感覚で知り得るものかもしれない。 
そして、ニューヨークやロンドンの若者のように、幾分しらけた目で世間を第三者的に見ている部分もある。 
過度の物欲にも興味を示さず、人間関係の濃密さも求めず、時には性欲さえも自己完結の方が好ましいと思うようになることも、時代性から読み解くことは可能なのだろう。 
スポーツもやってはみるが、苦痛を伴ってまでするべき魅力も感じず同好会のレベルを善しとしているようだ。 

その意味では、極めて時代の読みが正確な世代なのかもしれない。 
どのような世界が来ようとも、その時代に合わせて、身の丈を伸ばしたり縮めたり、大変器用にして、傷つかない生き方の知恵かもしれない。 
世代的な感情から言えば、色々と苦言の一つも言いたくなるのだが、彼らの時代の、彼らの決定であり、中年世代がとやかく言うべきことではないのだろう。 
彼らは、封建時代の商人や農民のように、その都度の不条理な政治にもめげず、生き抜いた封建庶民であるのかもしれない。 
少なくとも、他との比較において右往左往するのでもなく、自分なりに生き、他と争わず、逆にその時代の環境に大きく左右される事もないのかもしれない。 

世相を切るより転載