団塊世代のシニア社会における"健康と死の意味”

社会は、その多数を占める年齢層を中心にデザインされてきた。現在の日本の社会は若者を軸にデザインされた経緯があるが、これからはシニア層をもう1つの軸ととらえ、健康や死のあり方を問い直し、社会システムや生き方モデル(あるいは死に方モデル)を改定していかなければならない。その強力な推進力となるのは、おそらく団塊の世代だろう。
「老化」とは何だろう。老化すれば病気にかかりやすくなるし、病気やケガからの回復にも長い時間がかかるようになる。だから、老化とは望ましくないもの、避けるべきものと多くの人(特に若い世代の人)は思っているかもしれない。

しかし、老化そのものは決して病気や障害ではなく、体全体の能力が徐々に低下していく不可避のプロセスである。体の成熟が一段落した後に生じる身体機能、生理機能、感覚機能、精神機能の衰退であり、様々なストレスに対処する適応能力が低下するということだ。

勇ましく「アンチエージング」を叫んで様々な機能の衰退という現象に真っ向から挑み、老化現象そのものを完全に食い止めようとするのは所詮無理な話。「老化のスピードを抑えてマイルドにしていこう」というのが、実行可能なアンチエージングの考え方である。

ところで、この老化のスピードにはかなり個人差がある。近年の多くの研究によると、運動、食べもの、睡眠、喫煙、アルコール、気持ちの持ち方などを含む生活習慣を変えることで、老化スピードを遅くすることができると報告されている。シルバーイノベーションにおいても、経験豊富なシニア世代が高齢化社会を活性化していく上で、シニア層の健康や生活習慣のイノベーションに注目している。


団塊の世代は「生き方モデル」の大変化をもたらす

10年後には団塊の世代が75歳を超え、約800万人が後期高齢者となる。この巨大な人口の塊が日本の社会に大きな変化をもたらすことは間違いない。

社会は、人口構造上その多数を占める年齢層を中心にデザインされてきた。若者が社会の多数派を占めていた高度経済成長時代においては、生き方のモデルは若者が中心だった。しかし、これからはシニア人口が分厚くなり、人口の観点では社会の一大中心となりつつある。すると、生き方のモデルについても、シニア層が注目されるようになるのは必然だろう。

そこで、諸機能の衰退プロセスを意識しつつ、ライフステージモデルにしたがって人生後半の「生き方モデル」を考えてみたい。定年後の人生を(1)元気活発期、(2)病気障害期、(3)終末期の3つに分け、それぞれの人生課題や健康課題を探ってみよう。

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元気活発期:社会活動やスポーツで健康寿命アップ

定年後、人が自立した生活を送ることができる期間(健康寿命)を「元気活発期」と呼ぶことにする。この時期の人生課題の1つは、「役割なき役割」の創造だ。定年を迎えて、会社の役割からは解放される。目の前にあるのは、膨大な自由時間。「さて、次のステップはどうするのか」と考えを巡らせれば、新しい目標を作って何かにチャレンジしたり、後に続く世代の知恵袋になったりと、いろいろな活動ができるだろう。

なんといっても、蓄積してきた経験値、知識そして金融資産を使わない手はない。定年延長や再雇用を待ち望むだけでなく、市場や行政によってうまく解決できてこなかった社会問題の解決に取り組むようなシニア起業、ボランティアなどに期待したい。

実際、裾野が広い元気活発期のシニアからは、社会的なインパクトが大きいプロジェクトやNPOが出現しつつある。そうした社会貢献事業に投資して支援する「社会的インパクトファンド」の資金提供元としても、元気活発期に属する富裕層シニアは有望だ。

社会的インパクト(社会的課題を解決する事業)を創造するシニア、インパクトを広めるシニア、インパクトをお金の循環で支えるシニア。このようなシニア・インパクト・システムが回る大前提が健康なのだ。以上のような視点を踏まえると、個人が生き生きと暮らしていくためにも、社会システムをイノベートしていくためにも、健康へのケアがカギとなる。

ともあれ、元気活発期の健康課題は、元気を増進、維持し、健康寿命を伸ばすことでもある。

いずれにせよ、シニア世代の中核をなす団塊の世代は健康意識が非常に高く、自己表現欲も併せ持つとされる。団塊の世代から今後、社会起業したり、百寿者らを超えるパフォーマンスを示したりする人々が必ずや出てくるだろう。そうした人々が元気活発期の「生き方モデル」になることを大いに期待したい。



 たきがみ博士の想い


 ホルミシス健康館 旬(ときめき)亭

 
 いかによく活きるか、いかによく老いるか、いかによく死ぬか



病気障害期:「健康とは何か」を問い直してみるべき

健康寿命(自立した生活ができる期間)を過ぎ、日常生活に何らかの制限がある「不健康な期間」を、ここでは「病気障害期」と呼ぶことにする。いわゆる地域包括ケアシステムによって、ケアサービスを受ける人々が急増する時期だ。キュア(治療)とケア(たとえば介護)は入れ子構造をなしているので、正確には病気障害期にはキュアもケアも必要になってくる。

この期間の健康課題は、「なにがなんでも治してもらう」とか「病と闘う」というよりは、「いかに支え、支えられるか」や「いかに病と付き合うのか」ということだろう。もちろん、「次に続く終末期をいかに迎えたいのか」という個人の構えやとらえ方にも大いに影響されるのだが。

病気障害期の生き方モデルとして、ある程度の疾患や障害を持ちながらも、アクティブに活動する人々が増えているということだ。

1998年に世界保健機構(WHO)が「健康」の再定義案を発表した。それによると、「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない」とされる。

しかし、「健康」の概念は変わってくるのだろう。いや、変わらざるを得ないのではないか。たとえば、「傷病や障害の有無にかかわらず、本人がやりたいことをやれるような状態を健康という」というように。

こう"都合よく"健康を再定義してしまえば、ヘルシーな人々が大量に出現することになる。「私は健康です」と自他ともに認められるのであれば、気分は明るくなり、前向きにもなれるだろう。病気障害期の生き方モデルには、「何が健康か」を問い直し、元気になれるような心のあり方に気を配ることも大切である。



終末期:クオリティー・オブ・デス(死の質)を問う

健康な人でも、超健康な人でもいつかは死ぬ。それが人間の定めだ。死の訪れを予感する終末期の人生課題は「生きてきたことのまとめ上げ」であり、健康課題としては「その人にあった看取り、看取られ方のデザイン」ということになるだろう。

死生学の先駆的研究者であるアルフォンス・デーケン(上智大学名誉教授)は、死ぬことと生きることは表裏一体、不可分の関係であるとして、元気に生きている時期からの「死への準備教育」(デス・エデュケーション)の重要性を説いている。死ぬことに対する準備は、生きてきたことのまとめ上げでもあり、それは死ぬことに対する準備にもなるのだろう。



尊厳死をどう考えるか

安楽死という死の方法論について賛否両論あるだろうが、もし私が末期がんになって回復の見込みが全くないとしたら「人間としての尊厳を保ったまま死にたい」という思いはある。延命だけを目的とした措置を行わずに死を迎える「尊厳死」は、安楽死とは違う、もう1つの死に方である。

医療技術のイノベーションのため、回復の見込みが全くない状況でも、人工呼吸器や人工透析、胃ろうによる栄養補給などによって命を延ばせるようになった。しかし、これが患者に大きなストレスや苦痛をもたらすことがある。そのような延命措置を患者自身が拒み、人間の尊厳を保ちつつ死を迎えることが「尊厳死」だ。

この意味における尊厳死は、米国では「自然死」であると受けとめられている。患者の「リビングウィル(生前の意思)」にもとづく尊厳死は、人権の1つとして、米国のほとんどの州で法的に許容されている。


団塊の世代が75歳を迎える10年後に向けて、巨大な人口の固まりが元気活発期から病気障害期、終末期へ向かい、死ぬことや死の予兆に直面することになる。その中には積極的に健康増進に取り組み、高い問題意識を共有する人たちも多く含まれるはずだ。

クオリティー・オブ・ライフを求め続ける先に、いやがおうにも視野に入ってくるのは「クオリティー・オブ・デス(死の質)」だ。深い思索のもと、自分の人生の意味を静かに紡ぐ時、尊厳死、安楽死、自然死のあり方やそれらの権利を問う人々がおそらく急増することだろう。自分のライフスタイルなどにこだわりを持つとされる団塊の世代の何割かは、必ずや「死の質」を真摯に問いかけ、議論を巻き起こすに違いない。そうした議論を通じて、終末期の「生き方(死に方)モデル」が形づくられていくはずだ。