人生という名の遊び場で、いま、ここを活かされ、すてきに活きる

時代の本質をとらえた、心に残るすてきなメッセージ[構想、視点、こころ]と、新たな気付きをあなたに届けます。みずみずしく、活き活きとした、すてきな旬(ときめき)を一緒に探しにいきましょう。      ◆◇たきがみ博士が選ぶ”すてきなメッセージ”のおすそわけ◇◆

2012/03



あなたが眠りにつくのを見るのが 
最後だとわかっていたら 
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて 
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう 

あなたがドアを出て行くのを見るのが 
最後だとわかっていたら 
わたしは あなたを抱きしめて キスをして 
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう 

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが 
最後だとわかっていたら 
わたしは その一部始終をビデオにとって 
毎日繰り返し見ただろう 

あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど 
最後だとわかっていたなら 
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と 
わたしは 伝えただろう 

たしかにいつも明日はやってくる 
でももしそれがわたしの勘違いで 
今日で全てが終わるのだとしたら、 
わたしは 今日 
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい 

そして私達は 忘れないようにしたい 
若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも 
約束されていないのだということを 

愛する人を抱きしめるのは 
今日が最後になるかもしれないことを 
明日が来るのを待っているなら 
今日でもいいはず 

もし明日がこないとしたら 
あなたは今日を後悔するだろうから 
微笑みや 抱擁や キスをするための  
ほんのちょっとの時間を どうして惜し んだのかと 

忙しさを理由に 
その人の最後の願いとなってしまったことを 
どうしてしてあげられなかったのかと 

だから 今日 あなたの大切な人たちを 
しっかりと抱きしめよう 
そして その人を愛していること 
いつでも いつまでも大切な存在だと言うことをそっと伝えよう 

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を 持とう 
そうすれば もし明日が来ないとしても 
あなたは今日を後悔しないだろうから 

『最後だとわかっていたなら』(サンクチュアリ出版) 
 作・ノーマ コーネット マレック / 訳・佐川 睦 

精神科医の小木貞孝(ペンネーム 加賀乙彦)氏が、『死刑囚と無期囚の心理』の著書で、死刑にされることが決まっている囚人(死刑囚)と、終身刑によって一生を刑務所で過ごしている囚人(無期囚)の二つのグループを比較調査した結果を発表しています。 

    120314

        ◇死刑囚と無期囚の心理  加賀 乙彦  金剛出版 

前者は、死刑執行日がいつなのかはわからないが、とにかく死刑にされることが決まっている人たちです。 
後者は、死刑にされることはないが、刑務所に監禁され続けることが決まっている人たちです。 

死刑囚のほうは、活発で動きが多く、冗談を言ったり、歌ったり、笑ったり、泣きじゃくったりと、心の躍動感が大きい、という傾向があるそうです。 
一方、無期囚のほうは、従順で、腰が低く、一見愛想がよいのですが、自由でイキイキした感じはなく、ぼんやりした鈍感なかんじで、心の躍動感が小さい、という傾向があるそうです。 

死刑囚に対する死刑の執行通告は、執行される当日の朝に、当人に知らされるそうですから、死刑囚は毎日、「明日、死ぬのかもしれない」と思って生きているわけです。 

ガンジーの言葉の中に、「明日死ぬと思って生きなさい」というものがありましたが、死刑囚の方たちは、まさにその心境で生きておられるのです。 
一方、無期囚のほうは、死刑にされる心配はないのですが、最初は、変化のない退屈な毎日に苦痛を感じるそうです。 
しかし、やがてそれに慣れてしまいます。つまり、感情を麻痺させ、感情の動きを小さくさせることで、退屈を退屈だと思わなくなるのです。 

「死刑囚は濃密な時間を生きており、無期囚は希薄な時間を生きている」 

私たちはいずれ誰もが死ぬ。つまり私たちは、確実に死を宣告されている。そういう意味では死刑確定者と同じはず。 
けれども、そのことを死刑囚ほど常にはっきりとせっぱつまって感じている人はあまりいない。自分の死は少し先のことだと感じている人が多い。そういう意味では、人間は無期囚に似ている。 

私たちは必ず死ぬ存在であり、その日はいつやってくるかわかりません。もしかしたら、明日かもしれません。 
そして、この大切な真実を、僕たちは忘れてしまいがちなんだと思います。 

「メメント・モリ」という言葉があります、「死を想え(自分が必ず死ぬということを忘れるな)」という意味のラテン語です。 
あらためて、この言葉を胸に刻んでおきたいものです。 

(野口 嘉則さんからいただいたメッセージ) 

円高から円安への屈折点に遭遇するいま、歴史を紐解きながら、これからに想いを馳せてみたいと思います。 

幕末、初めて体験する為替レートに苦慮する男たち、幕府崩壊の真実を解明する。 
徳川幕府の崩壊は、幕末の薩長の活躍があまりにクローズアップされているので、それがために徳川幕府が崩壊したと理解している人も多いと思うが、本書を読めば、半分は自滅したことが分かると思う。 
官軍が江戸城に入城したとき、江戸幕府の金庫には金がなかったというのも、頷ける話である。 


◇大君の通貨 幕末「円ドル」戦争   文春文庫  佐藤 雅美著 

     120311

江戸幕府の通貨制度は3貨と言って、金、銀、銭の3種でした。(複数本位制度) このうち我々に馴染みのある金製の小判は定位貨幣であり、1両と定められていますので、江戸幕府は金本位制度であるとも言えます。  

1609年に幕府は金1両=銀50匁=銭4貫と公定比率を定めますが、金銀相場は小判の改鋳等もありなかなか定まりませんでした。 
そうした経緯の中、1765年に明和5匁銀が発行され12枚つまり60匁で1両と定めると言う銀貨の定位貨幣が発行されました。 これはつまり金本位の中で金銀交換比率が決められてしまうと言う事になります。 次いで明和2朱銀が発行され明確に2朱と言う定額なものになります。 

1両=4分=16朱と言う風に以前の米国株式市場の呼値のように4進法になっていますので、明和2朱銀は8分の1両と定められたのでした。これには大きな意味があります。 
切り売りしていた銀が貨幣となる事によって銀の価値そのままでは無く、金の代用通貨となった事を意味します。 もう少し言えばこれが紙幣であっても木片であっても幕府の刻印さえあれば通貨として通用するようになったと言う事です。 ここでは銀地銀を銀相場で売却せずとも明和2朱銀8枚あれば金1両と取り替えて貰える金兌換通貨となったと言えます。 

こうなると銀貨は銀地銀の価値と無関係になりますから、幕府としては流通する銀貨の量目を低下させて行けばその分財源が潤う事になります。 そして実際にそうして行ったのです。 「幕末外交文書」によると1818年から40年間の間に合計1797万両、年平均45万両の益金を銀の量を減らすことによって(出目)稼ぎ出していたそうです。当時の幕府の歳入は120万両程度であったので益金は歳入の約37%に達していたと言う事です。(幕末ニッポンより)  

天保小判(1837年)は重量11.3g 品位57% 銀も混じっていますが、金は6.44g 
天保1分銀(1837年)は重量8.6g 品位99%、4分で1両ですから4を掛けると34.4g 
金と銀の交換比率は 6.44:34.4 = 1 :5.34となります。 
しかしこれは金銀地金の交換比率では無いのです。 

この当時世界の金銀交換比率は約1:15でしたので重量による交換比率だけに着目すると日本は金の非常に安い国である事になります。  
教科書でも日銀HPでも日本の金銀交換比率がおかしかったように記述されていますが、正確な記述ではありません。 こうした日本の特殊な国内事情の中、ペリーは黒船にメキシコドル銀貨を抱えて日本にやってくる事になります。 

日本の銀貨は銀の重量に合わせた価値で決まっている訳では無く、あくまで1分銀が4枚あれば金貨と交換できると言う金本位制度下における紙幣と同じものでたまたま銀で出来ていただけの物でした。 

ここで不幸にも開国を迎えるわけですが、外人から見れば銀貨と銀貨を同重量で交換できれば日本の金は世界相場の3分1と言う事になり大儲けが出来ると言う訳です。 
これが幕末の金大流出、金の国ジパングと言う訳ですね。 

金大流出が何故どのようにして起こったか、丁寧な時代考証を交えながら小説化したのが「大君の通貨」です。教科書では習わなかった日本史があります。 
 

人間には短所があり、個性があり、失敗しながら、罪を犯しながら成長していきます。 
まん丸にはならないのです。角張ったまま成長していくのです。 

これが「角熟」という生き方です。 

人間は、不完全だから、どんな人間にも長所が半分、短所が半分あります。 

短所を気にしてはいけません。短所をなくす必要はありません。 

長所が伸びれば短所は人間味、味に変わるのです。 
短所が味に変わるまで長所を伸ばすこと。円熟ではなく、角熟こそ最も個性ある生き方です。 

個性のある本物は、角張ったまま熟していくのです。 

角張ったまま熟していくところに、個性ある本物の人間の姿があります。 

現実を肯定し、現実を活かしきる感性を原理にして、欠点があり、短所があり、角張ったまま熟していく生き方を人間の理想にしていくこと。 

個性ある人間の理想は、角熟です。 
円熟にならなくていい、角張ったところはそのまま残し、長所を伸ばす。 

円熟をめざすな、角熟をめざせ。 

(芳村思風) 

地球温暖化テーマは、 
1) 日本潰しが目的だった 
2) 京都議定書を批准して、削減義務を負ったのは日本だけ 
3) ヨーロッパは東欧の旧型の発電所が稼動していた1990年を基準年とする事で、 京都議定書が発効する時点では、既に目標を達成していた 
4) アメリカ、カナダは議会が批准せず、京都議定書の削減義務を負っていない 
5) 中国などの途上国は、京都議定書の削減義務を負わない 

ヨーロッパでは、早くから「排出権取引」が行われています。 
削減義務を負う企業が、削減目標を大幅に達成している企業から二酸化炭素の排出権を買うビジネスが成立していました。 
 ・二酸化炭素の排出権を売買しても、二酸化炭素は減らない 
 ・ ヨーロッパやロシアは、1900年を基準年とする事で排出権に余裕がある 
 ・ 日本は、ロシアから排出権を買っている 

二酸化炭素は、人間が生きているだけでも日々放出されます。森林も落葉や倒木が分解される過程で、大量の二酸化炭素を発生します。海は温度が高まれば、勝手に大量の二酸化炭素を放出します。 
こんな何処にでもある「無害の二酸化炭素」がお金になるのですから、これ程美味しい商売はありません。 

温暖化問題で脚光を浴びたのは「自然エネルギー」です。「再生可能エネルギー」とも呼ばれます。 
これらは、一見「エコ」に見えますが、これらの施設が稼動している間に生み出すエネルギーは、これらの施設を製造・建設する為に使用されたエネルギーと同等かそれ以下です。 
「再生可能エネルギー」は、製造時に大量の二酸化炭素を放出し、将来的徐々に二酸化炭素の帳尻を合わせて、最後にチャラになる技術です。 

電力供給における自然エネルギーの比率が高まると、電力の供給にムラが生じます。このムラを解消する為には、電力の「一時保管庫=蓄電設備」が必要になります。 
自然エネルギーは、時間変動や地域変動が激しいので、ストレージも分散設置が必要であり、従来の揚水ダムは利用できません。 
結果として、大量の蓄電池が必要になり、放出される二酸化炭素によって、自然エネルギーは将来に渡って、二酸化炭素を増加させる結果を生み出します。 
酸素を吸って二酸化炭素を放出する人間に、「葉緑体を細胞に埋め込んて酸素を吐き出せ!!」と言わなければならない。 

温暖化の広告塔と言えば「アル・ゴア」です。「不都合な真実」という映画を作って、世界を行脚していました。 
民主党、クリントン政権の副大統領であったアル・ゴアは、彼の祖父の代から、ウランビジネスの利権を持っています。 
結局、「温暖化問題」とは「石油から原子力」への隠れミノであり、「石油利権=ロックフェラー」と「原子力利権=ロスチャイルド」の戦いであったのです。 

中国やインドなどの新興国は削減義務を負っていませんが、経済発展してエネルギー需要の高まったこららの国々では、大量に二酸化炭素を排出しています。 
「世界温暖化会議」はこれらの新興国にも削減義務を負わせようとしました。ある意味、それは新興国の成長力を削ぐものです。 
世界は金融危機の最中で、新興国の経済成長に一縷の望みを掛けています。それなのに新興国の成長力を削ぐとは、本末転倒です。 

COP15(デンマーク会議)に、新興国の参加は絶望的となります。 
「アメリカなどが参加しなのならば参加しない」、「今までさんざん二酸化炭素を排出してきた先進国こそお金を負担すべき」、「新興国が二酸化炭素を削減する為に、カネと技術をよこせ」、彼らの主張は横暴でも何でも無く、正論です。 
自分の国力を削ぐような条約を批准する物好きは、日本くらいしか居ません。 

温暖化テーマは、暗礁に乗り上げているのです。 

温暖化テーマは、石油高騰時の代替エネルギー産業を育てる布石なのです。 
”世界の経営者達”が、石油高騰を起すつもりであるなら、「原子力発電所」も「ECOビジネス」も大化けします。 
電気自動車のバッテリーは、家庭用のストレージとして有用です。ソーラーパネルで昼間発電した電力を、車搭載のバッテリーに蓄え、夜間の電力として活用するのは合理的です。 

何かと胡散臭い「温暖化」と「ECOビジネス」ですが、全ては原油価格に依存します。 

イランとイスラエルが戦争して中東で戦火が広がれば、原油価格があっと言う間に2倍、5倍と跳ね上がります。当然ガソリン価格も、電気代もウナギの滝登り状態になります。 

そういう事態が生じた時、 
「ウチは太陽電池があるから電気代は掛からないのよ」とか、「ウチは日産のリーフだから、ガソリン代が掛からなくて嬉しいよ」 
といった勝ち組の笑い声が聞こえて来るのかもしれません。 
原油が高騰すれば太陽電池も電気自動車も製造費が高騰し、現在の様な価格では変えません。 

さらには、現在は太陽電池も電気自動車も国が補助してくれます。他人の納めた税金で、将来のコストを削減できるのならば、 
こんなに良い事はありません。 

陰謀論を信じるか信じないかは個人の自由ですが、陰謀論を非難ばかりしていても利益は少ないでしょう。 
陰謀に積極的に乗る事で、将来の勝ち組になるのは、案外悪くないのかも知れません。 

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