人生という名の遊び場で、いま、ここを活かされ、すてきに活きる

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2014/05

ベトナム衝突事件を仕掛けた中国の「黒幕」

南シナ海での石油掘削をめぐる中越衝突が発生して以来、関係諸国の猛反発の中で中国の孤立化が目立ってきている。

タイミングが悪すぎる掘削開始の不可解さ

 たとえばケリー米国務長官は5月12日、両国の艦船の衝突について「中国の挑戦だ。この攻撃的な行動を深く懸念している」と中国を名指しで批判した。さらに5月16日、カーニー米大統領報道官は記者会見において、南シナ海での中国の一方的な行動は「挑発的だ」と改めて批判し、領有権争いをめぐるベトナムとの対立激化は中国側に原因があるとの考えを示した。これでアメリカは、中国とベトナムとの対立においてほぼ完全にベトナム側に立つことになったのである。

 もちろんアメリカだけでなく、南シナ海周辺諸国の中国に対する反発も強まってきている。

 5月10日から開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議は、中国とフィリピン、ベトナムなどが領有権を争う南シナ海問題をめぐり、関係国に自制を求める共同宣言を採択したが、首脳会議に先立つ外相会議では、南シナ海での緊張の高まりに「深刻な懸念」を表明する共同声明を発表した。ASEAN諸国が結束して中国をけん制する立場を示したといえる。

 それに対し、中国外交部の報道官は5月10日に談話を発表して反発した。ASEAN外相会議・首脳会議の共同宣言・声明は中国を名指しで批判したわけでもなく、「関係諸国の自制」を求めているはずであるが、唯一中国だけがそれに反発したのは、要するに中国自身も、上述の宣言と声明はまさに中国に矛先を向けているものであると分かっているからであろう。

 とにかくベトナムとの海上衝突の一件をもって、中国は米国から強くけん制されているだけでなく、東南アジア諸国から総スカンを食った結果となっている。外交的に見れば、それは中国にとって大いなる誤算と失敗であると言えよう。

 このような失敗はすべて、中国自らの行動が招いた結果である。事実関係を整理すると、ことの発端はまず5月初旬、中国側が問題海域での石油掘削を一方的に宣言し実施したことにある。それに対して、ベトナム側はまず外交ルートを通じて中国に抗議して掘削の中止を求めたが、中国側がそれを拒否して掘削を継続したことから、ベトナム船がこの海域に入って中国側の掘削を阻止する行動を取ると、中国船は逆に体当たりしてきて放水の応酬などの衝突事件に発展した。

混乱が観られる当局の対応

 このような経緯を見れば、今回の事件は中国側の一方的な行為が原因で起きたことがよく分かるが、ポイントは、中国側が一体どうしてこのようなタイミングでこのような問題を起こしたのか、ということである。

 より具体的に言えば、中国は一体なぜ、わざわざASEAN首脳会議開催の直前というタイミングを選んでこのような挑発的な行動に至ったのか、それこそが問題なのである。ASEAN諸国の結束を促して中国自身の孤立化を自ら招く、あまりにも愚かな行動である。

 5月13日付の英フィナンシャル・タイムズ紙も、「中国とベトナムの衝突、観測筋が首ひねるタイミング」と題する記事を掲載して、中国側がことを起こしたタイミングの悪さを指摘しているが、まさしくその通りである。

 したたかな中国がどうしてこのような初歩的なミスを犯してしまったのか。それがまず湧いてくる疑問の一つであるが、さらに不可解なのは、ベトナム船との衝突が世に知られた後の中国外交当局の対応である。

 5月7日、ベトナム政府は証拠の映像を公開し、中国側の船舶がベトナム船に意図的に衝突してきたと発表、中国側を強く批判した。それに対して8日、中国の程国平外務次官は「そもそも衝突していない」と言って、衝突という明らかな事実を頭から否定し問題から逃げるような姿勢を示している。

 しかし同日午後、同じ中国外務省の別の高官が急きょ会見し、「ベトナム側が大量の船を出し、170回以上中国側にぶつかってきた」と発表した。つまり中国側もこれをもって「衝突があった」ことを認めたが、それは結局先の「衝突していない」という外務次官の発言を、中国外務省自ら否定することになる。この二つの発言のあまりにも明々白々な矛盾は、中国政府自身の対応がかなり混乱していることを露呈している。

掘削を実施した「中国海洋石油総公司」とは

 このような状況では、掘削の開始からベトナム船に体当たりで衝突するまでの中国側の一連の行動が果たして、中央指導部の指揮下におけるものであったのかどうか、という疑問が当然生じてくるのである。

 ASEAN首脳会議の直前という中国にとって悪すぎるタイミングから考えても、それが東南アジア諸国の対中国結束を固めることになる結果からしても、あるいは衝突直後の中国外務省の混乱した対応ぶりからしても、掘削の断行は中央指導部の統一意志の下で行われた戦略的・計画的な行為であるとはとても思えないのである。

だとすれば、今回の断行は、掘削を実施した部門の個別的判断によるものであろうという可能性も出てくる。それならば、その関係部門は何の目的のために、中国にとって大変不利なタイミングで大きなトラブルとなるような判断を行ったのか、という疑問が浮上してくる。そうなるとここではまず、掘削を断行した張本人の中国海洋石油総公司という巨大国有企業に目を転じてみるべきであろう。

石油閥の正体と激しい権力闘争

 ベトナムとの係争海域で今度の掘削を実施した中国海洋石油総公司。9万8000人以上の従業員を有するこの巨大企業は、中国国務院国有資産監督管理委員会直属の国有企業である。「国務院国有資産監督管理委員会」とは中央官庁の一つだが、おそらく中国政府は、採掘すべき石油資源は全部「国有資産」であるとの視点から、中国海洋石油総公司をこの中央官庁の直属下に置いたのであろう。

 それはともかくとして、実は去年の夏から、まさにこの国務院国有資産監督管理委員会において、驚天動地の腐敗摘発が行われていたのである。2013年9月1日に国営新華社が伝えたところによると、中国共産党中央規律検査委員会は、国務院国有資産監督管理委員会の蒋潔敏主任に対し「重大な規律違反」の疑いで調査を始めた、というのである。

 蒋氏は国有石油大手、中国石油天然気集団(CNPC)前会長で、2013年3月に国資委主任に転じたばかりだった。彼は共産党内では約200人しかいない中央委員も務めており、2012年11月の習指導部発足後、調査を受けた党幹部では最高位に当たる。

 このような立場の蒋氏に対する汚職調査は当然、習近平政権が進めている「腐敗撲滅運動」の重要なる一環であろうが、ここで注目されているのは、石油畑出身の蒋潔敏氏の背後にある、「石油閥」という共産党政権内の一大勢力のことである。

 中国でいう「石油閥」とは、蒋氏が会長を務めた中国石油天然気集団という巨大国有企業群を基盤にして中国の石油利権を一手に握る政治集団のことである。この政治集団の始祖は、1958年に中国の石油工業相に就任した余秋里氏である。

 中国の建国に貢献した「第一世代の革命家」の一人である余氏は建国の父である毛沢東からの信頼が厚く、58年に石油工業相に就任してから、中国最大の大慶油田の開発を仕切って「中国石油工業の父」と呼ばれるようになった。その後も中国経済を取り仕切る国家計画委員会(国計委)主任や国家エネルギー委員会(国エネ委)の主任などを歴任した。共産党内で隠然たる力をもつ石油閥の形成はまさにこの余秋里氏からはじまる。

 1999年に余氏が亡き後、彼の後を継いで石油閥の元締めとなったのは元国家副主席の曽慶紅氏である。2002年からは中国共産党政治局常務委員、03年から国家副主席を務めた曽慶紅氏は、元国家主席江沢民の懐刀として知られていて江沢民政権の要だった人物であるが、実はこの曽氏は江沢民の腹心となる以前、余秋里氏に仕えていた。

 余氏が国計委主任を務めた時に同委の弁公庁秘書となり、余氏が国エネ委に移ると、曽氏も同委弁公庁に異動した。そして余氏はその後も中央顧問委員会常務委員などを歴任して実権を握っていたため、曽氏は余氏の「ご恩顧下」で石油省や中国海洋石油総公司(CNOOC)で出世した。

 このような経歴から、余氏が死去した時、江沢民の腹心として政権の中枢にいる曽氏は当然、石油閥の次のボスとなった。そして曽氏自身が政治局常務委員・国家副主席となって権力の頂点に達すると、彼を中心にして石油閥は党内の一大勢力に伸し上がった。もちろん、石油閥総帥の曽氏は党内最大派閥の江沢民派(上海閥)の「番頭」的な存在でもあるから、石油閥はごく自然に江沢民派の傘下に入って江沢民勢力の一部となった。

 そのとき、石油閥の「若頭」として曽氏が抜擢してきたのが石油畑幹部の周永康氏である。周氏は中国の石油業界の「聖地」とされる大慶油田でキャリアをスタートして、その後、石油工業省次官、CNPC総経理、国土資源相などを歴任した。

そして2002年に胡錦濤政権が発足するとき、政治局常務委員となった曽氏は周氏を政治局員に推挙した上で警察を司る公安部長に転任させた。2007年の共産党17回大会では、曽氏は自分の引退と引き換えにして周氏を政治局常務委員の地位に昇進させた。しかも政法部門(情報、治安、司法、検察、公安など)を統括する中央政法委員会書記という政治的に大変重要なポストに就かせた。

 これで江沢民派・石油閥の党内基盤は盤石なものとなって、胡錦濤政権時代を通して、この派閥の人々はまさに飛ぶ鳥を落とすほどの権勢を振る舞った。そしてその時、徐々に老衰していく江沢民氏にとってかわって、引退したはずの曽慶紅氏が江沢民派・石油閥の陰のボスとなり、現役の政治局常務委員の周永康氏は政権中枢における派閥の代弁者の役割を果たしていた。

「腐敗撲滅運動」を手段に

 しかし2012年11月に開かれた共産党18回大会において胡錦濤指導部が退陣して今の習近平指導部が誕生すると、石油閥はやがて受難の時代を迎えた。18回大会で誕生した7名からなる新しい政治局常務委員会に、江沢民派・石油閥は4名の大幹部を送り込んで習氏を取り囲むような形で勢力を固めた。あたかも新指導部が彼ら江沢民派・石油閥によって乗っ取られたかのような形勢であるが、それに不満を持つ習氏は今度、前総書記の胡錦涛氏の率いる「共産主義青年団派」と手を組んで、江沢民派・石油閥を叩き潰すための権力闘争を起こした。徹底的に潰さない限り、自前の政治勢力の拡大と自分自身の権威樹立は永遠に不可能であると習氏も分かっているからだ。

 この権力闘争のために習氏の使用した手法がすなわち「腐敗撲滅運動」の推進である。石油利権という莫大な経済利権を手に入れてうまい汁を吸っているのは他ならぬ江沢民派・石油閥の面々であるから、彼らを倒すのに「腐敗の摘発」ほど有効な手段はない。そのために、習近平氏は自分の盟友である王岐山という経済部門出身の幹部を畑違いの中央規律検査委員会のトップに据えて、「腐敗撲滅」という名の権力闘争を始めた。

 前述の国務院国有資産監督管理委員会の元主任で石油畑出身の蒋潔敏に対する「汚職調査」は、まさに石油閥潰しの政治的摘発の一環であるが、習近平氏のターゲットは蒋潔敏のような「小物」ではない。石油閥大物幹部の周永康氏はまず標的にされていた。蒋潔敏氏に対する調査開始はむしろその前哨戦であったと見るべきだ。そして2013年12月から周永康氏の消息が断ったことから、その時点で彼は既に拘束されていてて取り調べを受ける身となったと思われる。今年の3月初旬に、一部の中国メデイアがいよいよ「周永康問題」について報道し始めたことから、彼に対する取り調べが進んでいる事実が白日の下に晒された。

反撃に打って出た石油閥  掘削事件の「黒幕」か

 しかしまさに今年の3月後半当たりから、習近平氏の石油閥叩き作戦が暗礁に乗り上げる様子となった。まずは周永康氏自身が、当局の調査に対し横領などの容疑を全面否定、協力を一切拒んでいることが4月になって複数の党関係筋によって明らかにされた。どうやら周氏は徹底抗戦の構えのようだ。彼がそれほど強気になっているのには当然それなりの理由がある。

 周氏に対する摘発が進んでいく中で、彼と同様に引退の身となった一部の長老たちはこのままでは自分たちの身も安全ではなくなると危惧し始めたことから、江沢民派・石油閥は反撃に打って出た。政治局常務委員会の中では石油閥の代弁者である筆頭副総理の張高麗氏や江沢民派重鎮の張徳江全人代委員長らが「摘発の行き過ぎが党の威信を傷つける恐れがある」との理由から、習近平・王岐山サイドの進める腐敗摘発=石油閥叩きにブレーキをかけ始めた模様である。

 そうすると、それまで順調に進んできた周永康摘発の動きが徐々に鈍くなってきた。前述のように、今年3月の時点で中国の一部メディアは既に「周永康に問題あり」とのような報道をしていたが、中国国内の一般常識からすれば、この問題に関するメディア報道の「解禁」は普通、摘発に関する政治的決着がすでにつけられていて正式発表が間近であることを意味している。

 しかしこの常識に反して、それ以来現在に至るまで、周永康摘発の正式発表は一切なく、摘発の進展を窺わせるような動きも一切なかった。「周永康問題」はとっくに全国民の知れるところとなっているのに、問題の決着がここまで先延ばされているとはまさに異常事態である。しかも、去年9月に「調査開始」と発表された蒋潔敏氏に関しても、現在に至って何の調査結果も発表されることなく、処分も決まっていない。それもやはり異様である。

 こう見ていると、現在、江沢民派・石油閥は、習近平氏の叩き潰し作戦に対して必死の抵抗を試みている最中であることがよく分かるが、このようなタイミングで、中越間の衝突を起こした掘削の意味を考えてみると、一件無関係に見えるこの二つの動きの間に関連性があるのではないかと思いたくなるのである。

 そう、問題の海域で掘削を断行したのはまさに石油閥傘下の中国海洋石油総公司であり、その総公司の上位機関である国務院国有資産監督管理委員会の元主任はまさに石油閥主要幹部の蒋潔敏氏である。今はまさに、彼らが習近平氏の腐敗摘発によって追い込まれている立場であり、自分たちの権益と命を守るために最後の戦いを強いられている最中なのだ。

 その際、習近平氏に対する最も有力な反撃の一つとして、外交トラブルをわざと引き起こすことも選択肢の一つとして考えられる。何らかの外交的危機が発生した場合、中央国家安全委員会主席の習氏は責任を持ってそれを処理しなければならない。外交上のトラブルはすなわち習氏自身のトラブルなのである。


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カネあり、コネあり 50代起業はローリスク
五十にして天命を知る─。「論語」に記された孔子の言葉はあまりにも有名だ。孔子以降の長い間、人々は天命を知った後は「余生」として老後を送るのが常だったに違いない。
 
だが、私たちは平均余命が大きく延びた日本社会を生きている。
 
天命を知ったればこそ、もう1回人生を楽しむことができるようになったのだ。「会社がすべて」の人生を送った人にこそおススメの「50代のリセット」を提案したい。


やりたいことをやる! 気概を持つべき

安倍晋三首相が推進するアベノミクスでは、1つの柱として「起業大国」を掲げている。起業というと若者に期待がかかるのが常だ。アベノミクスも若い人材による起業を想定しているようにみえる。

だが、前述のとおり競争が厳しい中で、若者が起業するにはリスクが大きい。ビジネス経験は乏しく、専門知識も不十分。出資を頼む人脈もない。あるのは気概だけである。なかなか成功は覚束ない。

そんな中で、50代の起業こそリスクが小さく、成功の可能性が大きいのではないか。

30年近いビジネス社会での経験を積み、なにがしかの専門知識を持つ。仕事で培った人脈も豊富だ。しかも、会社人生の先が読めてくる。
会社に残ったとして定年まであと10年、自分がどんな仕事をしてどんなポストに就くかだいたい見えてくる。つまり、残りの会社人生での収入の総額も大まかにつかめるわけだ。

一方で子どもが巣立つまでの期間やそれまでにいくら費用が必要かもだいたい分かる。漠然とした将来しか描くことができない若い人に比べて、十分に計算が成り立つのだ。
 
つまりリスクが小さいのである。

一昔前、日本企業で50代と言えばサラリーマンとしての「収穫期」だった。若いうちは安い給料で死ぬほど働くが、50歳を過ぎて役職に就けば、仕事は概して楽になり、収入は格段にアップする。
 
ところが「失われた20年」の間に、50代を取り巻く環境は激変した。経済が縮小する中で、ポストはなく、給料は上がるどころか下がり、挙げ句はリストラの対象だと言われる。

成長しなくなった会社では仕事も面白くなくなった。
経済が拡大していれば、会社は様々な新規事業に取り組む。ところが縮小均衡を目指すとなると、決まった仕事の奪い合いで、達成感は著しく減退する。

実は筆者も50歳を前に24年間勤めた新聞社を辞めた。記者として育ててくれた会社には心から感謝している。
だが、新聞産業が衰退する中で、どう考えても事業は縮小の一途で、自分が記者の命だと信じている「自由闊達さ」など望むべくもない。我慢してあと10年、少ないポストにしがみつくよりも、自分で自由に記事を書き続ける方が幸せだと見切った。
早期退職支援制度があったお陰でもある。独立して3年あまり。多くの人に支えられて、好きな仕事をしながら生きている。

会社を辞めたことをまったく後悔していない。
 
後悔するような人は恐らく会社を辞めないだろう。そして我々の強みは「定年がない」ことである。働ける限り働く。
大先輩のジャーナリストとして薫陶を受けている田原総一朗さんは4月15日で80歳になったがまだまだ現役だ。同じ4月15日生まれの私は28歳も年下である。人生は長い(寿命は神のみぞ知るだが)。

50歳でリセットできるかどうか。
問題は自分のやりたい事をやるという気概が持てるかどうかだ。つまり、会社を辞めてやりたい事があるかどうか、である。
 
50歳になるまでに「会社以外の世界を持つ」ことがカギだろう。

もう1つ。
会社を辞めて面白いのは、「思いがけない出会いがいっぱいあること」。
 
会社に所属していると仕事がしやすい面も大いにあるのだが、どうしても付き合う範囲が限られる。ところが自分で会社を始めると人付き合いの幅が広がる。30歳代の若者と出会い、一緒に仕事をすることが普通になる。会社名や肩書きよりも、その人の実力に目が行くようになる。

終身雇用が当たり前だった時代、中途で辞めた社員は「裏切り者」だったが、もはやそんな時代ではない。
 
「卒業生」が活躍しているリクルートのような会社はOB同士のネットワークで新しい事業が生まれている。途中で退職する社員が多いマッキンゼーは、ITを使ってコンサルタントのOBネットワークを構築している。会社の現役社員と卒業生がつながることで、仕事が舞い込んだり、卒業先が見つかることは日常茶飯事だ。

企業が終身雇用を守り続けることが難しくなってきた今、会社員自らが「50代のリセット」を選択できるような生き方をする。それが新しい働き方かもしれない。


★食べていけるくらいの利益が出ればいい
 
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東京・押上駅から10分ほど歩いたところにある十軒橋商店街(墨田区)。
ご多分に漏れずシャッター商店街だが、その一角に日本酒好きの間で急速に有名になったお店がある。日本酒バー「酔香」。
 
店主の菅原雅信さんが2010年5月、50歳の時に開いたお店だ。この菅原さん、出版大手の日経BP社で『日経レストラン』の編集長などを務めた有能な記者だった。実は、筆者の『日経ビジネス』時代の先輩でもある。
 

菅原さんが起業を思い立ったのは50歳になった時。現場取材が中心の記者から内勤が中心のデスクへと仕事が変わったことが大きかった。

「不本意な形で会社に居残るくらいなら、気力体力があるうちに新しい事をしたい」。そんな思いがわいた。ちょうど会社が希望退職者を募集したのが背中を押した。

『日経レストラン』時代に外食業界のノウハウを学んだ。もともと日本酒が好きで、取材を通じて多くの蔵元と知り合いになった。
 
そんな知識や人脈が店を開くのに役立ったのは言うまでもない。
「古い民家をリノベーションした日本酒の店」。まずコンセプトを明確にして絞り込んだのは、記者として見てきた外食業の基本だった。物件探しに奔走したが、古びた民家や廃業した店舗は、不動産屋の売り物件情報にはまず出てこない。
気に入った空き家が見つかると「思いを綴った」手紙をポストに投函した。これも、意中の経営者をインタビューに引っ張り出す時に使った手である。

そうこうするうちに、知り合いになった飲食店の人から「売り店舗が出た」という情報が舞い込んできたのが十軒橋商店街の酒屋だった。お店の壁にズラリと並ぶ酒瓶の棚は、その名残である。蔵元への伝手で特徴ある日本酒が手に入る。
それを「どれでも半合400円」の低価格で提供している。カウンターだけ10席ということもあり、土日でもなかなか予約が取れない。

不便な場所の小さな店でもやっていけるのは、固定費が安いからでもある。
建物は1500万円、改装費用に850万円。地代は月4.5万円で「とりあえず80歳くらいまで」ということで、30年契約にして住居兼用とした。従業員は雇わず、「食べていけるくらいの利益が出ればいい」と割り切った。

50歳代の起業は一見リスクが高そうだが、決してそうではないのだ。結果、開業以来、黒字が続いている。

菅原さんは日経BP社時代、リタイアを控えた団塊世代を狙った雑誌『日経マスターズ』の取材・編集に携わった。そこで、会社人間一筋で来て、最後に「濡れ落ち葉」になった多くの人たちの姿を目の当たりにした。

菅原さんは言う。「仕事をしながらでもいいから、会社以外にもう1つの世界を持っていることが大事だと思います」。



★50歳から60歳までの貴重な10年間

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「収入の事だけを考えれば起業などしなかったでしょうね」と岡村進さん(53)は笑う。
 
スイスの大手銀行UBSの日本法人であるUBSグローバルアセットマネジメントの社長を昨年6月で辞め、7月に人材教育のベンチャー企業「人財アジア」を創業した。
外資の高給を惜しげもなく捨て去ったのは、日本に今求められている世界で戦えるグローバル人材の育成に自ら関与したいと思ったからだ。

昨年7月の起業以来、大企業の社内研修の講師などを買って出て、ちょっとした人気講師になっている。海外勤務や外資系でトップを務めた経験からグローバルに通用する人材とは何かを語る一方、資産運用を通じて培った「マーケットの視点」を売り物にしている。

もちろん、企業研修が本当にやりたかったビジネスではない。
来年には丸の内の若手ビジネスマンを対象にした「学校」の設立を計画している。会社が授業料を払うのではなく、自らのスキルアップのために自分で学ぼうとする若い人たちを集める場を作るのが狙いだ。また、高校生など若者への「おカネ」の教育などもボランティアベースで行っている。

岡村さんは大学を卒業すると第一生命保険に入社。資産運用や人事管理を担当し米国での勤務も長かった。その後、友人に誘われてUBSに転職した。サラリーマンとしては間違いなく「勝ち組」だった岡村さんが「50代のリセット」を選んだのはなぜか。

「保険会社で、米国での資産運用会社を立ち上げた事がありました。手を挙げて、社内起業に参画したわけです。その時に、ゼロから作りあげる大変さと面白さを経験したのです」

ところが時間がたつと転勤を命じられた。サラリーマンとして当然である。

「やっぱり自分が資本家でなければ、責任も果たせないし、経営もできない、と痛感したんです」。その時以来、いつかは自分で起業したいと考えていたという。
 
その後、自身も社長になるが、「だんだん執着心がわき、社長でいることが目的化するように感じ始めた」という。自分が何のために働くのか、このままでは見失うのではないか。
 
「他の人や社会のために何かをしたい」いわば人生の原点回帰が「起業」という結論だったのだ。ちょうど長男が就職し、長女も結婚した。親としての責任が一応果たせた、という思いもあった。

岡村さんは企業研修に招かれると、50代の社員たちにこう問いかけている。「今の会社で50代は問題だと言われ続けながら、それでも会社にしがみついていくのは幸せでしょうか」。

60歳の定年を迎えてから起業しようという人もいる。
だが、本当に60歳になって起業するだけの自分を奮い立たせるエネルギーが残っているか。50歳から60歳までの貴重な10年間を中途半端に過ごしていいのか。



 
 

これから私たちは、「所有」は単なる手段であったことに明確に気づきます。

所有は、常に自らが食べていくこと、生活することに直結していました。
農業革命が起こり、食べていくことに必要であったから、土地を所有しました。
産業革命以降、生活するために必要であったから、会社を所有し、家を所有し、車を所有しました。

しかし、情報革命により、使用価値へアクセスするだけで、わざわざ所有までしなくてもいいことに私たちは気づき始めました。
環境配慮や自己顕示欲をひけらかさないという点からも、そっちの方がかっこいいと認識されるようになったのです。

人類がスマホやアプリによって手にする世界は、所有という概念を薄めていく世界です。ウェアラブルデバイスの普及によって、それはより明確に見えてくることでしょう。

21世紀は、共有資産にアクセスすることによって、使用価値を受け取る社会です。 
 

ソーシャルダイニングプラットフォーム

新しい外食のカタチが広がりつつあります。
こちらは食事を作ってシェアする人と、その食事を食べたい人をマッチングする「Feastly」。
 
 食事を登録している人は、一般の人からプロのまでそれぞれ。イタリアンからフランス料理、中華料理などなどあらゆる種類の美味しそうな料理が登録されています。

 
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また、気軽なお茶程度のものから本格的なコース料理まで様々なスタイルがありますね。

そして、食事の場所や時間、その長さ、座席のスタイル、アルコールポリシーなどが登録されています。
 
価格は無料から150ドル(約1万5,000円)まで。平均価格は35ドル(約3,500円)ほどとなるよう。

まさにソーシャルダイニングプラットフォーム。 

今後、外食の新しいカタチとして、世界に広がっていきそうです。


=>  =>  Open - tokimeki - Share  へと、つづく (構想中)
 
 

「ビジネス」でも「ワーク」でもなく、「趣味」でもない。DIY・複業・お裾分けを駆使した「ナリワイ」をつくり、現代社会を痛快に生きる方法論。

個人レベルではじめられて、自分の時間と健康をマネーと交換するのでなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身に付く仕事をナリワイ(生業)と定義。具体的なナリワイのタネを生活の中から見つけ、1つ1つを自分の小規模な自営業として機能させ、それらを組み合わせていくことで、「働くこと」と「自分の生活」を近づけることを目指す著者の、人生を使ってつくった渾身の「たたき台」。


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 一つの事もまともにデキないのに複数のことが出来る訳ないだろ!」と言われそうですが、つい60~70年前の人は当たり前のように複数の仕事をやっていました。


伊藤さんは現代のテクノロジー(インターネット)を活用しながら複業を行っている、いわば実験的な活動をしている一人で、ご自身でも収入源が10個くらいあるそうです。


グローバリゼーションによって海外の安い労働力との戦いを余儀なくされ、技術の進歩でロボットに仕事が奪われ、年々給料が下がっていく今の日本。



いつ会社が潰れるか、いつリストラされるかもわからない中で、個人として生き抜くために給料などの一つの収入源に固執せず、リスクを分散させていくためのナリワイ作りの考え方、方法論を紹介します。


ナリワイとは、個人で元手が少なく多少の特訓ではじめられて、やればやるほど頭と体が鍛えられて技が身につき、ついでに仲間が増える仕事のことです。
いちおう仕事なんですが労務か、と言われればやればやるほど仕事自体が生活の充実に直結するので、労務ではありません。


ナリワイは、以下に挙げられているようなことを特徴としています。

☆専業ではなく、複業
☆ローリスク、ローリターン
☆100%のサービスよりも、80%のサービス+20%のお客さんの手伝い
☆ロボットとは戦わない
☆値段は自分で決める (クライアントワークはしない)
☆一億人を相手にはしない (共感する相手とだけ、仕事をする)
☆個人で始められる
☆頑張って売上を伸ばさなくてもいい
☆即効性に期待はできない、徐々に、じわじわと
☆出来ないことはハッキリと断る
☆企業などの大きな組織では、できないことをやる



◇専業ではなく、複業
会社員として勤めていると収入源は会社のお給料一本。でも、それだとお勤めの会社の業績に全て自分の収入を委ねているような形になるので、会社が潰れたり、リストラに合うと収入源が全て絶たれ、ゲームオーバー。そうじゃなく、いくつか仕事を自分で作り、収入源を複数持つことでリスクを分散させるということ。

◇ローリスク、ローリターン
高価な機械や道具を買わなければいけないような事業にはハナから手を出さない。よくメディアで「借金3,000万をしたけど這い上がったなど」の美談を聞くが、そんなものを真似する必要はない。這い上がれなかったら親に泣きついて資産を売却してもらうか、自己破産の道しかなくなるから。

例えば、アケビのツルを使ったリース作りのワークショップをやるとすれば、ツルは山から拾ってくる。チラシはパソコンで作り、告知はもっぱらSNSとHPなど、広告費がかからない方法で。一人2,000円で設定するとして、10人集まれば20,000円になる。誰ひとり集まらなくてもお金はかけていないので赤字にはならない。

大きな収入にはならなくともリスクは小さいので、事業として継続させることも、途中で諦めることも難しいことではない。

◇ロボットとは戦わない
機械が出来るようなことには勝負を挑まない。コストで負けるのが分かっているから。

人に感動を与えたり、事細かにレクチャーしたり、親身に対応すること、創造することなど、ロボットが出来ないことに重点をおく。

◇値段は自分で決める (クライアントワークはしない)
アウトソーシングされる仕事を受けることがフリーランスに多いらしいのですが、これも相手に値段を決められてしまうので良くない。どんなに良い仕事をしても、一回いくらと決められてしまっている。そうではなく、自分の仕事の値段を自分で決めることで、無理にお客さんの値引き交渉に応じる必要も無くなる。

◇個人で始める
一個人として始められる仕事は沢山ある。その辺で開催しているバザーに出店してみることから始めたっていい。空き部屋があるならAirbnbというサービスで宿にしてもいい。Estyで手作り品を売ってみても良い。「草刈りやります!」というビラを高齢者宅にバラまいてもいい。やれば一つくらい仕事がくるかもしれません。

◇頑張って売上を伸ばさなくてもいい
専業だと、価格交渉をされても仕事が無くなるよりマシだから相手の要求を飲まなければいけないこともあるが、ナリワイ的には元々一つの仕事で食べていこうというつもりがないので、一つの仕事の売上に固執する必要がない。今月この仕事であと10万稼がないといけないという強迫観念が無いので、精神的にもそこまでツラくないだろう。

◇企業などの大きな組織ではできないことをやる
モンゴル武者修行ツアーでは、現地に行ってから集まった人たちと一緒にプランをあれこれと組み立てていくスタイル。
大手旅行会社では支出が現地に行かないとわからない、タイムスケジュールが事前に組めないようなツアーは組めません。



学校卒業したら、いきなり一個の仕事に従事してずっと同じ仕事し続けるというのはなんか無理がある。
 
というのも今でこそ一つの組織に所属して一つの仕事をずっとやるという生活は常識になっていますが、歴史的に見たらそうでもなく、今の働き方は歴史上ある意味異常なものです。
せいぜい100年前は、色んな仕事をして生計を立てている人が大半でした。
 
で、なんで今みたいになったかというと、高度経済成長期に、日本は国が一つの株式会社のように経済成長のためにいろんな生業をしていたなかで、雑多な生業を切り捨てて、国として儲かる産業に人を集中させたからです。
 
田舎から列車に乗って都市へ集団就職した、という映像を見たことがある人もけっこういると思います。
めちゃめちゃ仕事の多様性をここで減らしたわけです。で、繊維とか車とか工業製品をつくりまくった。
 
どれだけ仕事の多様性が減ったかというと、大正9年の国勢調査で国民から申告された職業は約3万5000種、現在の厚生労働省の「日本標準職業分類」によれば、今は2167職種。
 
わずか100年ぐらい前にはかなり仕事の多様性があって、日本人はそれぞれの適性に合わせて生計を立ててました。季節ごとに3つぐらい仕事をしていた人は珍しくないはずです。
 
その多様性を切り捨てて仕事を専業にして絞り込んで頑張って経済成長してきたのがここ数十年の日本なのですが、専業化しすぎて生活がおろそかになりました。
言い換えると生活と仕事が乖離してしまったわけです。仕事ばっかりして、自分の生活がサービスに依存しすぎている、ということです。

子供の世話を保育園に外注するために子供との時間を削って働く、というなんだか本末転倒な現象はいたるところで見受けられます。
今流行のライフワークバランス、という言葉自体が端的に生活と仕事が乖離していることを表しています。
 
で、こういう働き方を続けて健康にいいかというと人間そこまで丈夫ではありません。
私の身の回りでも、うつ病になって会社を休職した人や辞めた人が10人以上は軽くいます。やはり、これは歪みが出ていると思います。
 
1個の組織で1つの仕事を毎日決まった時間に行う、という生活は人類の歴史では異常なことなので、合わない人がけっこういてもおかしくない。
 
そこでナリワイは、そもそもライフとワークのバランスを考えるのではなく、生活から乖離してしまった仕事を個々人の手の届く範囲のほどほどの距離に近づけることを目指しています。

いうなれば生活と仕事の一体化です。
そのためには一つの仕事だけで競争を勝ち抜くのではなく様々な仕事をその適正サイズを見極め、それぞれを組み合わせて生計を建てていく、という百姓的な作戦や、そもそも生活の自給度を高め、不必要な支出をカットするという作戦の合わせ技が必要である、と考えています。

一個だけで「食っていこう」とすると、大きな投資が必要だったり、かなりの競争を勝ち抜くための努力が必要になってきます。なかなかしんどいことです。


 
 
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もし誰かに
「究極の健康法を教えてください」と言われたら、「ゆっくり生きること」と私は即座に答えます。
 
「ゆっくり生きる」という言葉には、「健康のすべて」が集約されていると考えられるからです。
 
ところが、現代社会を生きる私たちはとにかく忙しい。
 
時間的、物理的に忙しいだけでなく「あれが心配だ」、「こんな悩みがある」、「気がかりなことがなくならない」など、精神的にも落ち着くことがありません。
 
あなたの日常も同じではないでしょうか。

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私たちの体の調子を支配しているのは、自律神経
 
心臓や胃腸を動かしたり、血液をつくり、血管の収縮を管理するなど、「自分では意識して動かせない部分」のすべてを担っているのが自律神経です。
 
この自律神経が乱れると、体の調子が悪くなり、果ては病気になってしまう。
 
 
多くの人が送っている「忙しく、落ち着かない日常」は、自律神経がもっとも乱れやすいライフスタイル。
 
心臓や胃腸の働きが悪くなり、血液の質が下がり、血流も悪くなります。
 
 
その結果、
心臓や脳の疾患、血管系の病気、胃腸のトラブルなどを、起こしやすくなってしまうのです。
 
本当の健康とは、良質な血液が細胞の一つひとつに十分に届いている状態。
 
これに尽きます。
 
 
そもそもどんな病気も、「血液の質と流れが悪くなる」という部分はすべて共通しています。
 
この血流の悪さというのは、
病気を引き起こすのみならず、日常的なさまざまなシーンでも悪影響を及ぼします。
 
たとえば、人間関係。
 
烈火のごとく怒る、猛烈に腹を立てるという状態。
 
怒っているとき、あなたの自律神経は大きく乱れています。
 
自律神経が乱れることで、血液はドロドロになり、血流も悪くなっています。
 
 
「怒る」という行為は、それだけで血液の質を落とし血管が収縮し、血流も悪くする。
 
怒りに限らず、不安や緊張でも同じことが起こってきます。
 
病は気からというように、怒りや不安、緊張などメンタルに変化が起こると、
その動きに体が敏感に反応し、本当に病気に近づいていってしまうのです。


一方で、
人は安心しているとき、適度に血管が拡張しスムーズに血液が流れる状態になっています。
 
まさに、ゆっくり生きれば、それだけ健康に近づくということです。

円はいつまで「リスクオフ番長」でいられるか

「市場のリスク許容度が萎縮すると円高になる」という現象は、一体いつまで続くのだろうか。業界知己との会合で、最近よく話題になるテーマだ。

実際、円やスイスフランがいわゆる「リスクオフ通貨」と呼ばれるようになったのは、近年の風潮だ。少なくとも1970年代から90年代中葉にかけては、主要通貨の値動きを「リスク許容度の伸縮」によって説明する慣行はほとんど無かった。

98年秋に米大手ヘッジファンド「ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)」が破綻した際に話題になった円キャリー取引の逆流による強烈な円高も、今から思えば「リスク許容度の萎縮が惹起した円高ショック」の典型だったが、当時の市場では「特殊な金融事故による巨額ポジションの強制整理がきっかけで勃発した例外的な為替変動」という解釈が主流だった。

今では普通に使われている「リスクオフの円高」というフレーズは昔から流通していたわけではない。90年代末期の「LTCMショック」は予兆事例だったが、その後かなり長い潜伏期間を経て、ほぼ毎日利用可能な「為替市場の連想方程式」として利用され始めたのは、2008年秋に勃発したリーマン危機が引き起こした強烈無比な金融不安の荒波に市場が飲み込まれた頃からだった。

改めて指摘するまでもないが、為替市場の流行には栄枯盛衰がつきものだ。たとえ昨今のマーケットで強い神通力を放っている「為替売買必勝の法則」であっても、同じ発想がずっと通用し続けるかどうか、むやみに信じるのは慎むべきだ。

実際、80年代以降の日経平均株価やNYダウ株価指数とドル円相場のチャートを並べてみても、順相関と逆相間の時期が混在している。最近でこそ、「国内外で株価が下落すると条件反射的に円を買う」という一種の「刷り込み売買」が流行しているが、その永続性については冷静な検証を加えた上で、時宜に応じて発想を切り替えられる「心の準備」はしておく必要があるだろう。


近年、円がいわゆる「リスクオフ通貨」というレッテルを貼られている背景には、以下4つの条件が関与していると考えられる。


第一は、円が「対外純資産国の通貨」であるということだ。直近の対外資産・負債統計によれば、12年末時点で日本は296兆円の対外純資産を保有している。国内外の市場参加者がリスク回避姿勢を強め、国境をまたがる「在外資産の回収合戦」が始まるとの連想が広がる場合、対外純資産国に対しては「外貨建て資産の売却による通貨高圧力が強まる」との思惑が台頭しやすい。

日本の対外純資産の内訳をみると、約72兆円は機動的な本国回帰が難しい直接投資であり、約110兆円は財務省が保有する外貨準備であるため、全体の半分以上は金融市場が動揺しても急激な本国回帰は起こしにくい。しかし、機動的売買の余地がある証券投資の残高も125兆円程度に積み上がっている。このうちどのくらいが市場の「リスク許容度」に機敏に反応するかは未知数だが、仮に1割程度でも変動するならば、それだけで十数兆円規模の本国回帰が促される可能性がある。

このため、日本が「対外純資産国」の地位を維持している間は、市場のリスク許容度が萎縮すると「日本人マネーの里帰りが円高圧力を生む」との連想が働きやすい。今後日本で巨額の経常赤字が定着して対外純資産が一気に目減りでもしない限り、「リスクオフ通貨」としての円の立場は安定していると言えそうだ。


第二は、円が「経常収支黒字国の通貨」であるということだ。「国内外の市場参加者が在外保有資産を一斉売却して自国に引き揚げる」という極端な金融危機を想定しなくても、「国内外の金融市場が不安定化して各種資本取引が停滞すると、経常黒字国の通貨が値上がりしやすい」という考え方は、為替市場に古くからあった。「何らかの要因」で金融取引が停滞しても、国境をまたがる貿易取引、利子・配当の受け払い、宗教的寄付、出稼ぎ労働者の本国仕送り、政府開発援助などは停止せず、淡々と為替需給に反映されるからだ。

そうした観点で現在の日本の状況を眺めてみると、東日本大震災後に観測される貿易赤字の膨張を背景に、経常収支の黒字が無くなりかけている。13年度の経常黒字は7899億円と、リーマン危機前のピークだった07年度、24兆3376億円の30分の1未満に目減りしている。

内訳をみると、第一次所得収支の黒字が高水準を維持して貿易赤字拡大の影響を吸収しているが、現在、日本の第一次所得収支には、1)本邦企業の海外法人が外国で稼いで当地に溜め込んでいる現地収益、2)日本政府が保有する外貨準備に付与される金利収入など、統計上の慣行でひとまず黒字に計上されているだけの金額も、各々数兆円程度の規模で含まれている。経常収支全体の黒字が年額1兆円未満に目減りしている現状では、日本は実質的な赤字国になっている可能性が濃厚だ。

よって、この条件に照らしてみると、「リスクオフ通貨」としての円の地盤は揺らぎ始めている。今後、日本がかつてのように恒常的な貿易黒字国に返り咲くなら、「リスクオフ通貨」の資格を回復することになるが、貿易赤字が一層拡大して経常収支赤字化への道を歩む場合、円は逆に国際資本移動の停滞時に実需の売りが目立つ通貨になってしまう可能性もある。


第三は、円が「低インフレ、あるいはデフレ国の通貨」であるということだ。物価上昇率とはすなわち、モノに対するお金の価値の下落率に他ならない。よって、各国通貨の購買力に注目して理論的な為替レートの均衡点(=購買力平価)を求めると、相対的な低インフレ国やデフレ国の通貨に対しては、当該期間中に計測される内外インフレ率格差分の自国通貨高圧力がかかってしまう。相対的な低インフレ国やデフレ国の通貨に対しては、構造的な増価圧力が働きやすい。

そうした観点に立脚してこれまでのドル円相場の長期的な歩みを眺めてみると、80年代から最近に至るまで、円は「低インフレ国、あるいはデフレ国の通貨」として、ドルに対する購買力平価の傾きが、ほぼ恒常的に円高トレンドをキープしてきた。

しかし、「大胆な金融緩和によるデフレ脱却」と「国際標準の物価目標2%の達成」を政策の要諦として掲げる安倍晋三首相・黒田東彦日銀総裁の登場により、この条件も現在揺らいでいる。日米のインフレ格差が安定的に無くなった場合、これまでずっとドル円相場の趨勢を支配してきた購買力平価の円高圧力が消滅するからだ。その意味で、「アベノミクス」によるリフレ政策とは、「リスクオフ通貨」としての円の性格を変えようとする試みに他ならない。


第四は、円が「戦争忌避国」の通貨であるということだ。冒頭触れたように、昨今の為替市場で円とスイスフランは「リスクオフ通貨」の番付で「東西の正横綱」と見なされているが、両方とも、
1)対外純資産国、
2)経常黒字国、
3)低インフレ国という3条件に加え、
4)「戦争忌避国」の通貨である、という類似点がある。

この条件は、「金融危機」からの疎開先通貨をイメージした前述の3条件とは毛色が違い、いわゆる「地政学的危機」からの避難先通貨としての判定基準になるが、いわゆる「リスクオフ通貨」としてみた場合の円の守備範囲の広さを考察する際には無視できない。

周知のように、様々な法解釈の余地はあるものの、日本は現在の憲法9条によって「戦争の放棄」を標榜している。1815年のウィーン会議によって軍事的な「永世中立国」の地位を獲得したスイスとは「戦力の不保持」や「交戦権の否認」などの点で違いはあるが、「侵略戦争をしないと宣言している国」というイメージでは類似している。このため、円は「海外で大規模なテロが勃発する」「国際軍事紛争が激化する」などの局面では、一時的にせよスイスフランと並んで紛争当事国からの「リスク回避マネー」の受け皿と見なされやすい面もあった。

ただ、現在政府が進めている憲法解釈見直しの動向次第では、「地政学リスクに強い円」という市場認識が非常にゆっくり変わる可能性があるかもしれない。極めて政治色の強いテーマなので深入りは避けるが、もしも今後より多くの市場参加者が日本を「特定の条件」の下では「戦争に巻き込まれやすい国」とみるようになった場合、「地政学リスクに強い国の通貨=円」というイメージが微妙に揺らぐ可能性があるかもしれない。実際、最近気になる東アジア地域における軍事的緊張が強まるようなケースでは、「有事の円買い」ではなく、円売り圧力が意識される局面も散見され始めている。


以上を踏まえて総合的に判断すると、対外純資産国としての日本の地位はしばらく安泰なことから、「グローバルな資産回収合戦」を想起させるほどの金融危機に巻き込まれた場合、円は当面買われやすい通貨であり続けるだろう。しかし、貿易収支の赤字化が今後一段と進行していく場合、国際資本移動が停滞する程度の金融不安に直面した場合の為替の反応が、今後も円高であり続けるかどうかは微妙だ。

「アベノミクス」が成功して内外のインフレ格差が消滅すれば、購買力平価の傾きに由来する構造的な円高圧力は消滅するとみられるほか、今後の憲法見直しの顛末によっては、「地政学リスクに強い円」のイメージも微妙に変わる可能性がある。

このような状況下、「リスクオフ通貨の4条件」を全て高い水準で満たしている通貨は、現在世界でスイスフランだけになりつつある。いまのところ、円はまだ「リスクオフの横綱」とみられているが、ほぼ完璧な条件を満たしているスイスフランと円を比べた場合、もしかするとその安定感について、白鵬と日馬富士ぐらいの差が出来つつあるのではなかろうか。

円が未来永劫のリスクオフ通貨であり続けるかどうかについては、今後の国際収支動向、物価情勢、憲法解釈見直し論議の進捗状況などを観察しつつ、いずれ再考すべき時期がくる可能性はあるだろう。


*植野大作 三菱UFJモルガン・スタンレー証券 チーフ為替ストラテジスト


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折りたたみ式電動アシスト自転車Gi-Bike

Gi-Bikeは折りたたみ式の電動アシスト自転車で、シンプルでポータブルで安価な都市型乗り物をねらっている。Toledoがアルゼンチンのコルドバへ行ったとき公共交通機関がストでひどい目に遭い、それでGi-Bikeを思いついた。

“通勤でも、乗り物は他に頼っちゃだめだ、と痛感したんだ。乗り物に関しても、個人の独立宣言が必要だ。いろいろ研究した結果、全世界的に通用する効率の良い乗り物は自転車だ、という結論に達した”、と彼は言う。

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特長(特徴)はとっても多い。まず、折りたたむのも開くのもわずか1秒。チェーンではなくカーボンベルトで駆動。電動アシストは一回充電すると40マイル有効。GPS装置は自転車が一定の範囲外に出たら自転車を自動的にロックする(盗難防止)。携帯の充電ができる。電動自転車(ニューヨークでは違法)ではなく、あくまでも電動アシスト自転車である。

Kickstarterの支援者には2995ドル、定価は3390ドルの予定だ。重量は37ポンド(約17キログラム)で、タイヤとリムはMinority Report的だ。

“未来の自転車と呼びたいけど、身内ではTesla自転車と呼んでる”、とToledoは言う。

CEOのToledoは元エコノミストで、リーンスタートアップと資本トレードの経験がある。CTOのAgustinoyは電子工学専攻の工業デザイナー、Sevilliaは家族やスタートアップを対象とする経済アドバイザーだ。
彼らが作った夢の自転車は、ご覧のように曲線が多くて、まるで野獣のようだ。

資金募集目標額は40万ドル、今20万まできている。発売予定は来年の3月だ。

電動アシスト自転車は今やありふれているが、でもこれはなかなか巧妙にできているし、スタイルも良いから、レア感がある。
Riideと同じように、知る人ぞ知るというタイプの自転車で、フレームに秘密があり、電池は強力だ。見るからにクールだから、ぜひ乗ってみたい。



若者 vs. 『おじさん』   理は、若者にありそう

リーダーなんていらないし、絆じゃ一つになれないし、ネットで世界は変わらないし、若者に革命は起こせない。

この国の「大人たち」は、いつもどこかズレている。

ジョブズのようなリーダーに憧れ、夢と絆で一つになれると信じ、「日本の良さ」は必ず伝わると疑わず、若者には変革を期待し、学歴や就活は古いと嗤い、デモやSNSで世界は変わると訴える。

この「勘違い」はどこからくるのか? 迷走を続けるこの国を二十九歳の社会学者が冷静に分析。日本人が追い続ける「見果てぬ夢」の正体に迫る。

140514

「このままでは『2040年の日本』はこうなる」と銘打った最終章は、恐るべき未来像なのだが、古市流リアリズムの集大成ともいえる内容で、非常に興味深い。ご紹介方々、いくつかのキーワードをピックアップしてみる。


 ・相対的貧困率4割
 ・2030年で日本の人口は一億人割れ
 ・2019年 合計特殊出生率は1.0を割り込む

 ・毎月一定の電子マネーを配布するベーシックインカム制度が導入される
 ・プロザック抗うつ剤配布

 ・2020年代からは中流層の海外脱出が目立つようになる
 ・工場はほとんど海外に分散

 ・世界中が都市の時代に移行
 ・日本では東京と福岡がアジア地域の『中心都市』として
 ・世界各国から優秀な人材を集める地域になって持ちこたえる

 ・地方はコンパクトシティ化して生き残りをはかる
 ・限界集落は消滅
 ・東京の繁華街はほとんどが老人

 ・専門性のない中高年がつける仕事は、移民相当職くらい。
 ・驚くほど賃金は安い

 ・救急車や消防車はお金をはらわないと来ない
 ・公立学校からは体育や音楽などの実技系の授業が姿を消す
  (多額な教育費用がかかるわりに成果が見えにくい)

 ・福島第一原発は技術者不足で一向に処理がすすまない。
 ・海外の会社が原発の跡地を買い上げ、世界中の核廃棄物を集める
 ・最終処分場をつくる計画がある。

 ・2020年の東京オリンピックの時に新設されたスタジアムや競技場のいくつかは廃墟へ


まさに、『絶望の国』だが、意外にも多くの人が満足して生きる幸福な階級社会になるという。

こんな絶望の国なのに、多くの人が満足? そう、古市氏の『絶望の国の幸福な若者たち』の主題はそこにあったのだった。


増える一方の非正規雇用、低賃金のワーキングプア、格差の拡大と固定化、クレージーなほど厳しい就活戦線・・、古市氏が『絶望の国の幸福な若者たち』を書いた当時も、アベノミクスで好景気と言われる現在に至っても、この国の若者の置かれた環境が改善する兆しはまったく見られない。

それどころか、厳しさはどんどん増している。今厳しいだけではなく、将来に夢を抱くこと自体がまた絶望的に激しい。古市氏が一貫して仮想敵とみなす、『おじさん』ならずとも、今の若者は『不幸』なのでは、と言いたくもなってくるだろう。

ところが、古市氏は、内閣府の『国民生活に関する世論調査』のデータを参照して、20代の生活満足度が、バブル以降の日本の経済指標が悪くなって行くのに反比例して、どんどん高くなって来ていることを指摘する。(そして、なんとそれは78.4%にも達する!)

その理由の説明として、『絶望の国の幸福な若者たち』では、親と同居していてあまり貧しさを感じていないこと、インターネットを利用するお手軽なコミュニティは花盛りで手軽に承認欲求を満たせるようになったこと、自己実現欲求や上昇志向から降りることで小さなコミュニティの比較しかしなくなり不満が減ったこと(相対的剥奪)等もあがっていたが、今回は「その謎を解く鍵は『コンサマトリー』という概念にある」とズバリ指摘する。


社会学では、『今、ここ』にある身近な幸せを大切にする感性のことを『コンサマトリー(自己充足的)』と呼ぶ。何らかの目的達成のために邁進するのではなくて、仲間たちとのんびりと自分の生活を楽しむ生き方のことだ。

 若者たちの生活満足度の高さは、このコンサマトリーという概念によって説明することができる。高度成長期のように、産業化が途中の社会では、人は手段的に行動することが多い。「車を買うために、今は節約しよう」とか「家を買うために、がむしゃらに頑張ろう」とか。

 だけど、衣食住という物質的な欲求が広く満たされた社会では、人々は「今、ここ」の生活を大切にするようになっていく。特に1990年代以降、「中流の夢」が壊れ、企業社会の正式メンバーにならない人が増えていく中で、若者のコンサマトリー化は進んでいった。 『だから日本はズレている』より

すなわち、生活満足度は国内総生産等の数値の上下より、基本的なマインドセットによるところが大きく、客観的な経済指標がどうあれ、コンサマトリー(自己充足的)なマインドを持つ人が増えるほど満足度はあがる、というわけだ。

コンサマトリー(化)とは、アメリカの社会学者タルコット・パーソンズの造語であり、道具やシステムが本来の目的から解放され、地道な努力をせずに自己目的的、自己完結的(ときに刹那的)にその自由を享受する姿勢もしくはそれを積極的に促す状況のこと。

対義語はインスツルメンタル(化)。
非経済的な享楽的消費の概念を「消尽(consumation)」と呼び、非生産的な消費を生の直接的な充溢と歓喜をもたらすもの(蕩尽)として称揚したフランスの思想家・作家ジョルジュ・バタイユの考え方とも相通ずる現象解釈といえる。

このインスツルメンタル(化)こそ、明治期から高度成長期くらいまでの日本人の主要なメンタリティーであり、『空気』であった。そして、社会も中間共同体(会社等)もこのメンタリティーを一種の道徳として、同調圧力をもって強要した。『車を買うために、家を買うために、子どもをいい大学に入れるために、老後の蓄えをつくるために、会社が大きくなって安定するために・・・』皆のマインドはどこまで行っても手段、また手段だ。

その結果、日本人の貯蓄率は他国を圧倒して高くなった。老後に備えて蓄え、老後にも節約し、死ぬ時に、たしか平均2千万円くらい(正確な数値ではなく多少曖昧な記憶ではあるが)を残して死ぬ。(イタリアではほぼゼロ、すなわち、老後を楽しむために使い切るという話を聞いた記憶がある。)こんなメンタリティが骨の髄までしみているのが『おじさん』たちだ。


この『おじさん』たちも、バブル期には人が変わったように消費した。個人的な感想を言えば、これはコンサマトリー(自己充足的)というより、ジョルジュ・バタイユのいう蕩尽(非生産的な消費を生の直接的な充溢と歓喜をもたらすもの)の方がより近いように思える。
バブルという時代は、まさにお祭りで、堰を切ったように今まで押さえつけられていた欲望が溢れ出し、皆が日常を忘れて狂ったように消費に耽溺した。

バブルが破裂した当初は、これまでのように経済を成長させていればまたバブルは戻って来ると『おじさん』たちは比較的楽観的だった。ところが、戻って来るどころか日本経済はどんどんおかしくなって、経済指標も悪化の一途をたどる。それを見て、『おじさん』たちもやっと我に返る。

ふと周囲を見ると、中国や韓国のような新興国が強力なライバルとして浮上してきて、このままでは日本経済は奈落の底に転落してしまいかねない。俄然、インスツルメンタルなメンタリィがよみがえり、若者に対して経済成長を煽ることになる。このままでは日本人は再び貧困に沈むことになる。
結婚も子育ても持ち家もできなくなる。だから、今を犠牲にしてでも猛烈に勉強して、猛烈に働いて、グローバルな競争で遅れをとらないようにしないといけない。
そんなことは当たり前だろうとばかりに『おじさん』たちの信念は非常に強固で妥協の余地はない。

つまり、若者たちはバブル期以降、『おじさん』たちの路線からは降りて、『身近な幸せに幸福感を見いだすこと』を始めたのに対して、『おじさん』たちはむしろ、インスツルメンタル・マインドを再度強化しようとし始めた(本当にそうなのかって? そう思うなら『おじさん』の中の『おじさん』の集まりである経団連に注目して、会長始め会員企業のトップの発言の数々をチェックしてみるといい。きっと私の見解に納得してもらえると思う。)つまり、バブル期以降、若者と『おじさん』たちとはそのマインドにおいて、正反対の方向に向かったことになる。

これでは両者が交わることは、それこそ『絶望的』に難しいだろう。そんな『おじさん』たちから見れば、若者は、イソップ寓話『アリとキリギリス』のキリギリスに見えてしまうはずだ。
『今さえよければ』というようなことでは、やがて冬がくると困ることになるだけなのだから、もっとアリのように働けと言いたい『おじさん』は多いはずだ。


では、客観的にみて、どちらが正しいのだろう。あるいは、この両者のバランスをとるような折衷案などあるのだろうか。正直この問に答えることは簡単ではない。
だが、あえて言えば、私は若者ほうに、やや時勢の理があると思う。若者の基本的なスタンスをベースに、もう少し普遍性のあるモデルに昇華させていくことを模索するのが現実的だと考える。少なくともインスツルメンタル・マインド一辺倒には無理がある。そう考える理由は3つある。

1. もう額に汗するだけでは夢は叶わない

『おじさん』が強固に維持するインスツルメンタル・マインドが最も機能したのは、欧米という目標があって、得意な製造業で、『追いつけ追い越せ』と頑張っていた時代だ。
成熟した今の日本では、いくら歯を食いしばって働いても、これ以上賃金や生活が向上するとは限らない。相対的にコストの安い海外に工場が移転することを押しとどめることも難しい。そもそも、もう、『汗』よりも『知恵』がなければ付加価値を増すことはできない。

2. 幸福になれない

インスツルメンタル・マインドに駆り立てられるほうが、人は働くかもしれない。長時間労働にも耐えるかもしれない。富国強兵や高度成長には機能したことは確かだろう。
だが、インスツルメンタル・マインドは言い方を変えれば、『飢餓意識』だ。どこまで行っても満足できない。自分を常時他人と比べて、いつも不満と不安を持ち、その強迫観念を経済成長のエネルギーへ転化する。しかしながら、歯を食いしばって働くことで多少なりとも経済的に豊になったとしても、いつまでたっても満足度/幸福度は上がらない。

しかも、将来のために(将来出世するために、家を買うために)『今、ここ』にいる仲間や家族を犠牲にする/軽視するのは、特にこれからは、見合わない。会社はいつなくなってしまうかわからないのだ。会社の仕事だけではなく、家族や社会もバランスよく重視する姿勢のほうが幸福を長期的に維持できる可能性は広がる。

また、日本人は、アリとキリギリスの寓話を、『アリのように将来の危機の事を常に考え、行動し、準備をしておくのが良い』ということを語る教訓と読むが、一方、この寓話には、『アリのように夏にせこせことためこんでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ助けの手を差し伸べないほど冷酷で独善的なけちであるのが常だ』という寓意もある。

今の時代には、アリのようにせこせこためこんでも、世の情勢が急変して自ら困窮者の立場に転落してしまう恐れもおおいにある。そうなったら、アリのように餓死寸前の困窮者を助けなかった、独善的なけちには、誰も助けの手を差し伸べてはくれないだろう。

3.将来見通しに固執することのリスク

インスツルメンタルであるためには、ある程度見通せる将来があることが必要だ。ところが、これからどうなる、という、正確な将来の見通しを持つことは、今や誰であっても難しい。天才であってもだ。

だから、将来見通しを持つのはいいが、そんなものはすぐにでも変わってしまっておかしくないくらいに考えておく必要がある。ビジネスで成功する秘訣も、どんなチャンスが来るかわからないから、何が来てもよいように『今、ここ』に最大限集中し、いざチャンスが来たら、そのチャンスを逃さずに全力を注ぎ、成功へと導くような姿勢が求められている。
『将来はこうだから、今から何々をやって備えておく』ことは否定しないが、過度にコミットしてしまうような柔軟性のなさは命取りになりかねない。


それでも尚、『おじさん』は『コンサマトリー』の例を聞くと、『享楽的』『刹那的』というような、『反道徳』を想起してしまいがちだ。
無理もないこととも言える。特に、現代の若者がSNSで意義ある討論を行うでもなく、だらだらと単なるつながり(つながりの社会性)に耽溺しているように見える様(典型的なコンサマトリーの一つ)には我慢ならないという人も多いだろう。

私が思うに、『コンサマトリー』にも段階があって、家族やごく近い仲間とだけに閉じて、場合によっては刹那的とも享楽的とも見える段階の上に、もう少し広いコミュニティ(あまり広げ過ぎはしないが)のために、今ここでできることに全力を尽くす、というような、高次の段階があるというべきだろう。

実際、古市氏も、『今、ここ』を大切にする若者たちはまた、社会変革の可能性も考えているようだという。

内閣府の調査によれば、『社会のために役立ちたい』と考える20代は2013年で66%もいて、調査を開始した1975年以来最高の数値なのだそうだ。現代の若者は、他人と競争するよりも協調することを好み、身近な仲間たちとの関係を何よりも大事にするという。
『今、ここ』で暮らす自分や仲間を大切にして、自分たちが生き易い環境をつくろうとすることが、抽象的な革命や一瞬のお祭り騒ぎで終ってしまうような『政治』より、余程社会を良くすることに寄与するという意見には、私も基本的に賛成だ。

古市氏はまた、『おじさん』は『今ここにないもの』に過剰に期待してしまい、『今ここにあるもの』に潜んでいるはずの様々な可能性を見過ごしてしまっているという。こ
れはとても大事な視点だと思う。『今ここにあるもの』に潜む様々な可能性を最大限に生かして行くという意味での『コンサマトリー』にはよりレベルの高いやりがいと満足感がついてくるだろうし、これからの時代に社会を良くする秘訣も潜んでいると考えられる。

古市氏の定義では、『おじさん』とは『いくつかの幸運が重なり、既得権益に仲間入りすることができ、その恩恵を疑うことなく毎日を過ごしている人』で、人は今いる場所を疑わなくなった瞬間に誰もが『おじさん』になるという。

だから、そんなおじさんには、実は性別や年齢は関係ない。
『おじさん』は自分たちの価値観を疑わない人のことであり、今の日本はそんな『おじさん』だらけだ。社会を変えること=『おじさん』が変わることなのに、確かにそれはものすごく難しそうだ。
だから、日本の未来は、このままでは古市氏の描くような未来になる可能性がかなりあるように私にも思える。

ただ、年齢にかかわらず、『おじさん』になることを敢然と拒否する少数の人達はこの日本にもちゃんと存在すると信じたい。
そんな人達もまだ、コンサマトリー/インスツルメンタルの思想対立には必ずしも決着をつけていないように私には見える。
だから、せめて、私が指摘した、インスツルメンタル・マインドの限界については(必ずしも賛成ではなくても)、自分の頭でじっくり考えてみて欲しいと思う。自分を疑いはじめた『おじさん』は古市氏の定義では『おじさん』ではなくなるので、元『おじさん』とでも呼んべばいいのだろうか。

今の日本を本当に変えることができるのは、そんな元『おじさん』だけだ。少なくとも私はそう思う。

 

「現実世界」の次なる常識

ネットと新しいデヴァイスが密接に結びつき、「次」の常識が生まれている。「モノのインターネット」は、イノヴェイションは、ぼくらの生活に何をもたらしうるのか。そしてこれからの組織、社会、ビジネス、そして働き方はどう変わるのか。その黎明期からインターネットとともに歩み、最新刊『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』(PHP親書)にまとめた小林弘人に、訊いた。


──「モノのインターネット」(Internet of Things)という言葉が広く語られるようになってきましたが、それ自体、どんなポテンシャルをもっているんでしょう

大事なのは「それで何ができるのか」ということ。提供できる体験が何なのか考えたうえで、デヴァイスとインターネットをいかに協調させるかをデザインする必要があります。それも、モノをネットにつなげることをユーザーに意識させることなく、です。

かつての「PC中心主義」は、インターネット前史および黎明期に「ネットワーク中心主義」に移行しました。そして、いまのようにインターネットのユーザー数が増え、いつでも簡単にスマートフォンで接続できる時代は、すでに「人間中心主義」になったと言えます。それなのに、個々のデヴァイスのスペックや覚えなければならない操作に翻弄されているとしたら、いかにも前史的です。

「スマート家電」ということでいえば、例えば冷蔵庫をインターネットとつなげて、食材を管理したりレシピを入手したりする使い方は容易に予想できます。
でも、なかのイチゴが腐っているのを教えてくれたり、賞味期限も含めて食材を管理してくれたり、庫内の食材からレシピをおすすめしたり、腐っている食材があればすぐにオンラインショップにオーダーをするかを聞いてくれたりする姿が考えられますよね。
まだまだ「人間中心主義」的に設計できる余地がある。

つまり、目的がはっきりしたうえで、やっとユーザーを満足させられるんです。テクノロジーの使い方よりも、提供できる体験の価値をどうデザインできるかがカギ、なのです。

グーグルに買収された警報機「ネスト」がいい例でしょう。ネストは人工知能によって家の中の空調などをコントロールしますが、生活者のパターンを学習し、またそれを生活者にアプリ経由で知らせてくれます。

どういうパーツをネットワークと絡めて協調させていくか。いまはすでに、そういう時代に突入している。必要なのは、「目的設定とユーザー体験」といったヴィジョンからのリバース・エンジニアリングだと思います。

ただし、いまはグーグルのようにお金をもっている企業が新しいプロダクトをどんどん買っていっちゃう。それにしても、フェイスブックによるOculusRift(オキュラス・リフト)の買収にはびっくりしましたね。


──フェイスブックはオキュラス・リフトを買って、何を狙っているんでしょうね。

普通に考えたら、「セカンドライフ」の未完成をオキュラス・リフトが完成させる可能性はありますね。友人同士を接続し、仮想空間を楽しむ方法論が考えられます。

でも、もう一方で、現行サーヴィスとは切り離したビジネスにする可能性もありますし、ぼくならばそうします。ただ言えるのは、オキュラス・リフトのヤバさはもう、ここ5~6年で見たテクノロジーのなかでもダントツ。


──何がすごいんですか。

80年代に提唱されたサイバーパンクの世界がやっと実現したか、という感じですね。いったん身につけたら人類はもう、オキュラス・リフトの中から出てこられない気もする。目の前に展開される仮想の空間に、好きなだけいられる。究極の引きこもりツールですよ(笑)。

オキュラス・リフトは「肉体」というセンサーを騙すのが巧妙なので、疑似体験が「疑似じゃない」。これまでのツールは錯視などを利用して脳を騙そうとしてきたし、その綻びゆえに、脳が仮想体験を補完してきました。でも、オキュラス・リフトによって、肉体が本当に体験してきたようになるわけです。ちょっと小難しい言い回しになりますが、「仮想世界の実体験」がオキュラス・リフトの真骨頂かと。

エンターテインメントの分野以外でも、例えば火を噴く火山や月面のように、人が歩けない地点の状況をシミュレーションすることができますよね。
建築の現場でも、シミュレーションをよりリアルに再現できる。オキュラス・リフト自体はすでにあった技術を組み合わせたものでしかありませんが、生み出せる体験が大きな意味をもつわけです。


──ヴァーチャルの中でリアルな体験をできるようになる一方で、リアルな社会はウェブをコピーする。著書でもそのようにおっしゃっていますが、リアルとヴァーチャルの両軸は、どのようにつながるのでしょうか。

オキュラス・リフトはともかく、本ではもっと根本的な思想について書いています。『WIRED』の読者ならおわかりでしょうが、あるテクノロジーが普及する前に、自分で利用してその効能を知るとします。そうすると、そこで獲得したリアリティをもとに次のことを考えるようになる。ぼくの場合は、例えばブログがそうでした。「これはヤバい」から始まって、「このツールを使って、個人でも新聞社や雑誌社と同じことができるじゃないか」、と。

同じように、例えばネットで誰かと知り合ってイヴェントを行ったり、クラウドファンディングやソーシャルレンディングを利用したりすることで、ウェブのリアリティを個々が獲得していく。そしてその人数は次第に増えて、現実社会にリアリティがフィードバックされるのです。

そうした繰り返しは、今後さらに加速することになるでしょう。なぜなら、冒頭に述べたように「人間中心主義」の時代に突入しつつあるから。繋がっているのは「あなたのPC」ではなく、「あなたというURLとそのほかの人たちそれぞれのURL」なのです。

人がソーシャルグラフをもち、あらゆるデヴァイスがネットに繋がる時代には、モノありきではなく、コトが起きる。それは、共創(コ・クリエーション)やそれを含む共有型経済(シェアリング・エコノミー)がもつ思想を抜きには語れません。
実社会は次第に、それらの行動様式や価値観を、ウェブからコピーしていくようになるでしょう。

本の中で「インターネットで調べられないものを調べろ」と書いたように、ぼくはヴァーチャル至上主義ではありません。ヴァーチャルが規定している中でしか活動しないのは危険だし、視野を狭めてしまう可能性がある。
ヴァーチャルとリアルとの融和点を見出し、それをどううまく結びつけていくかということが、今後テクノロジーを用いる大きなヒントになっていくだろうと思っているんです。

ですから、冒頭で述べたように、世の中はテクノロジー・ドリヴンではなくなる。個々のテクノロジーよりも、目的の背後でデヴァイスやウェブ、あるいは他社サーヴィスのAPIなどが連動したかたちで動く「使い方」、言い換えるなら「文脈重視」になってきています。

Facebook、Google、そしてMOSAIC



──リアル世界がネットで起きたことを模倣していくという見通しは、早い段階からお持ちでしたか

それは、もう昔から。インターネット黎明期、それこそウェブサイトが数えるほどしか存在しなかった時代から見てきましたが、現実からネットへの「引っ越し」は1990年代の後半から起こっていたと思います。

その頃ネットにあったのは、あくまで二次元の現実でしたが、いまは二次元だった「カーボンコピー」に奥行きが生まれています。Facebookが登場して、ひとりの人がひとつのパーマリンクとなり、お互いがつながった。

そのとき何が起こるかというと、やはりモノではなくコト、なんですよね。例えばネット上で「海岸行ってゴミ拾いをやろうぜ」と投げかけると、「賛同! わたしたちもやる」というコミュニケーションが発生する。
マイクロ・アクションから、クラウド・ファンディングまで、人はすべて、コトに共感するわけです。そのような行動は、まだネットに詳しくない人たちには説明が必要です。しかし、ネット上でつながった人たちのリアリティは、次第に社会にコピーされていく。
いまはそのリアリティをもつ人とそうでない人たちが共存する端境期と言えます。

ちょっと昔話をしましょうか。
ぼくがEメールを使い始めたころは、メールが届いたその日のうちに返事を書かないと、電話がかかってきて怒られた(笑)。自宅でもメールを使えるように設定するのは今より大変で、ハード/ソフトとともに障壁が高かったんです。だから、それをクリアすることに歓びを見出す人が先を走れたわけです。

でもいまは、スマホを持ち歩く生活が当たり前になって、当時では考えられないくらい高性能なデヴァイスを使い、ほぼ常時接続している。そして、そこでのリアルタイムのやり取りが普通になっています。

ネット上のリアリティは、時間をかけながら現実の社会にも持ち込まれるわけですけれど、ヴィジョンが先行するので、実は「やがて社会はこうなる」というアイデアの多くは黎明期に議論百出しているんです。
いまはそれを皆が知らないし、知りようもないので、新たなアイデアのように語られることが少なくありませんが、実は90年代初頭から米『WIRED』などではさんざん書かれていて、当時は夢想主義や自由主義と批判されていた(笑)。
90年代後半、MITメディアラボの10周年記念行事に出向いたことがありますが、そのときにウェアラブルデヴァイスの話や「botがあなたに代わって情報収集する」というアイデアは多々出ていて、まだ実現されていないものもあります。

「オープン」や「シェア」という言葉も同様で、いましだいに現実社会にコピーされつつある。この20年強ずっと見てきて、やはり「社会はウェブをコピーする」のだと実感しますね。


──インターネットの歴史を見てきたなかで、大きなモメンタムがあるとすると、何になりますか。例えば3つ、重大な出来事を挙げるなら。

逆算してみましょう。まずFacebook、そしてGoogle。これらは巨大ですよね。

もうひとつ、それ以前ではやっぱり、インターネット閲覧用のブラウザ「モザイク」(NCSA Mosaic)の登場でしょうか。
それまでのネットワークでは、テキストだけを検索するための「ウェイズ」(WAIS)、ファイルを検索する「ゴーファー」(Gopher)、掲示板の代わりに各種議論を「ニューズグループ」で…というように、バラバラだったんです。
だからこそ、すべてをひとつにしたブラウザの登場は衝撃的でした。現MITメディアラボ所長の伊藤穣一氏が、富ヶ谷で日本最初のウェブサーバを立ち上げた頃、彼にモザイクのデモを見せてもらったのですが、そのとき「世界が変わる」と確信しました。


──スマートフォンやモバイルの存在は、その数に入りませんか。

果たしている役割は、確かに大きいですよ。ただし、デヴァイスやツール、仕組みは時代とともに変遷するもの。同軸ケーブルよりも光ファイバーのほうが偉大だという議論と同じことです。

生活を変えてしまうには、背後のインフラ革新はもちろん欠かせません。ただ、行動様式そのものを書き換えてしまうということは、フロントエンドありきなので、ソフトウェアやサービスを挙げました。

今後、スマホよりもっとエポックメイキングなものがいつ登場するかわかりませんよね。そのうちオプトインで肉体に埋め込むデヴァイスだって現れるかもしれない。

ただ、脳内への挿入はさすがに倫理的な抵抗があります。その点でスマホではどうしても超えられない壁があって、人の脳に電極を刺して入力するときの「一瞬」に勝てないタイムラグが、アナログの最後の砦だと言えるでしょう。
ある情報を見たときにその人がどう考えるのか、そしてどういう行動に遷移させるのかという、信号と感情を司る部分──人とデヴァイスの間の「最後の数十センチ」をどう埋めるかが勝負になると思います。

カギは「体験のデザイン」と「サブシステム」



──そのときカギになるのは、何でしょう。

再三言っていますが、ぼくは「体験のデザイン」ということになると思う。例えばそれは、「使って気持ちいい」とか「マニュアルなくても使いやすい」ということかもしれませんし、「ちょっと洒落てる」「気が利いている」といった感覚も、そうでしょう。
コンテンツを作っている立場であれば、そのコンテンツを見た人を泣かせるのか笑わせるのか、マーケッターならそのブランドに対する感情をどう設計するかといった能力ですよね。

ぼくは昔から、ハードウェアでもソフトウェアでもない、マインドウェアとでもよぶべきものがあると思っています。メディアは短期的に見ればただのコンテンツの集合体ですが、長期的にユーザーが摂取する場合にはマインドウェアとして機能します。

ディズニーランドが提供しているのはハードウェアと演出のデザイン、そしてホスピタリティですが、それらすべての影響力が絡み合ってマインドウェアとして、来る人の心に作用するわけです。


──では、体験をデザインする役割は、どういう人間が担うのでしょうか。従来の「デザイナー」という職能では説明できないように思うのですが。

究極的には「わがままなユーザー」なのだと思います。iPhoneを生み出したスティーヴ・ジョブズのような、「俺はこれを使いたいんだ!」「ないんだったら自分でつくる」という考え方。つまりは、地上でもっともわがままなユーザーになり、その人たちが、何を欲しているかというのが起点になってくるのでしょう。
呪文のようなコマンドを入力する仕様のPCが、少し前まですごく売れていたということすら笑い話になるかもしれません。

ただ、この話は結局、組織論にぶちあたるんですよ。組織のなかのひとりが「これをつくっている場合じゃない」と思ったとしても、企業の論理では「それはおまえの範疇じゃない」、でしょう? 企業において、そのようなわがままが通ると、収集がつかなくなってしまう。


──企業体をどうデザインするのか、非常に難しい課題が立ち上ってきますね。

アップルや、同じようにひとりの「わがままな」リーダーが率いる企業を見ていても、実は、普通の会社とそう変わらないと思います。というか、むしろボスこそ絶対なので、『インサイド・アップル』など内幕を描いた本を読むと、普通の会社よりイヤな感じ(笑)。

必要なのは、共創に近い考え方なのでしょう。出版社を例にとると分かりやすいのですが、「お前は営業、俺編集者」という区別はもはやありえません。
メディアの売り方に対しては、全員がアイデアを出すべきだし、メディアのことを一番よく知っているのは編集者。それなのに縦割りで動くことに、意味はありませんよね。

多くの場合、仕事はひとりの力ではカヴァーできなくなっていて、だからこそ、人が集う企業であることの意味が出てくると思うんです。そして、企業内で実現できないのなら、外部の力を調達して、コラボレーションしていくことも考えなければならない。
自己完結することは、もはや複雑かつスピーディーなこの世界や市場では難しい。

やりたいことで生きていける社会


 続きを読む

・ジャック・デンプシー
 チャンピオンとは、立ち上がれない時に立ち上がることができる人だ。 

・モハメド・アリ
 目の前に立ちはだかる山が、あなたを疲れさせるのではない。
 問題は靴の中の小石だ。 

・ビンス・ロンバーディ
 分野、職業に違いはあるが、あなたの人生の成功度を決定するのは、
 最高を目指していつも全力を尽くすことだ。

・ディーン・スミス
 間違いをおかしたら、先ず間違いをおかしたことを認めること。
 そして間違いから学び、間違ったことをいつまでもクヨクヨしないことだ。

・マイケル・ジョーダン
 私は9000以上のショットをミスし、約300試合に敗けた。
 更に、ゲームの土壇場で、勝敗を決めるショットを26回外した。
 とにかく私の人生は失敗だらけだ。だから私は成功したのだ。 

・ボブ・ナイト
 あなたの最大の敵は目の前に立っていない。最大の敵は私たちの人間性だ。 

・モハメド・アリ
 私は試合に備えたトレーニングが大嫌いだった。
 しかし、止めてはだめだ、と自分に言い聞かせトレーニングを続けた。
 なぜなら、今の苦しみがチャンピオンとしての暮らしを約束するからだ。
 
・マイケル・ジョーダン
 才能や素質で試合に勝つことはできる。
 しかし、
 チャンピオンシップの栄冠を得るために必要なのはチームワークとインテリジェンスだ。 

・ジェリー・ライス
 私は今日、人がやらないことに挑戦する。
 なぜなら、そうすることで私は明日、誰にもできないことを達成できる。

・マーブ・レビー
 フットボールは人格を作り上げるのではなく人格を暴露するものだ。 

・アーサー・アッシュ
 あなたは敵を相手にプレイしているのではない。
 あなたは自分を相手にプレイしているのであり、自分の最高のスタンダードが相手だ。
 最高の喜びは、あなたが自分の限界に達した時だ。 

・マリオ・アンドレッティ
 もし全てが思うとおりに進んでいるのなら、あなたはまだ全速力で走っていない。 

 

人生では

何を選ぶか、自分で決めなければならない...
 
 
 
「 楽な道 」を選べば

 見える景色はいつも同じ
 
 
 
「 楽しい道 」を選べば

 見える景色はいつも変わる
 
 
 
「 他人 」に期待すれば

 イライラする方へ流され
 
 
 
「 自分 」に期待すれば

 ワクワクする方へ導かれる
 
 
 
「 自分はダメ 」と考えれば

 未来は暗い方へ流され
 
 
 
「 自分のタメ 」と考えれば

 未来は明るい方へ導かれる
 
 
 
「 できない 」と思えば

 限界が 形作られ
 
 
 
「 できる 」と思えば

 可能性が 形作られる
 
 
 
「 不満 」ばかり言ってると

 足を引っ張る人になり
 
 
 
「 感謝 」をたくさん伝えれば

 手を引っ張る人になる
 
  
 
幸せの扉から転載

「勉強→良い学校→正規雇用」は豊かな人生か

「がんばって勉強→良い学校→長期安定的な正規雇用」。多くの日本人は、人の前ではこの教条的な図式に批判的な態度をとりつつも、実のところ最も望むものであったりする。
ことお金と健康に関するかぎりこの図式は有効ではある。だが、それだけの人生で満足できるのか。
 

お金で健康を買える時代、「君はどうする」と学生に問う

 筆者は大学や大学院で生命倫理や医療サービス・イノベーションの専門的な講義をやっている。そんな折、人生の当事者としての学生にこんな問いかけをよくする。

「お金持ちになれば健康でいられる確率が上がり、貧乏だと深刻な病気になる確率が増える。これらの傾向には科学的な根拠がある。では、君はどうするか」。

 すると臆面もなく学生はこう答える。

「しっかり大学で勉強して、就活がんばって、ちゃんとした給料をもらえる会社に就職して、ちゃんとした人と結婚して、健全な家庭を持ちたいと思います」。

 いやはや。筆者が大学生の頃、こんなことを言えば「ろくでもない人間」と思われても仕方がなかった。体制に順応的な卑怯者。進取の精神がない。臆病者でもできる唯一の冒険つまり結婚に憧れる奴。年功序列や終身雇用制に体よく納まることをよしとするプチブル(小市民)――。

 だが、今の学生に対して、「君は保守的だなぁ!」「体制的だなぁ!」などとは口が裂けても言えない。今や、このようなライフデザインこそが、過酷な社会でサバイブするために目的合理的であるからだ。


日本人の悩みのトップはお金と健康

 この議論を始める前に、日本人が置かれた状況を確認しておきたい。

140512

 よほど能天気か鈍感でないかぎり、悩みと不安がない人はいないだろう。いったい、人は何に悩みと不安を感じるのか。その大元に横たわるものは何なのか。

 それは、お金と健康だ。

 未踏高齢化社会に突入しつつある日本人にとって、お金と健康の問題はますます大きくなりつつある。そこでは、より多くの人々が健康、お金、生き方のバランスをとるライフデザインに注意と労力を払いつつある。


 内閣府が2013年に実施した「国民生活に関する世論調査」でも、お金と健康に関する悩み・不安が浮き彫りになっている。全体の66.1%の人は現在の生活に何らかの不満や不安があり、その内訳を示すのが右のグラフだ。55.3%が老後の生活設計、52.4%が自分の健康に対して、43.2%が家族の健康について不安を持っているという。今後の収入や資産の見通しについては、40.0%の人が不安を感じているという。

 これから先の生活はどうなっていくのだろうか。この調査では、「良くなっていく」と答えた人の割合はわずか9%にすぎなかった。「同じようなもの」と答えた人は58%、「悪くなっていく」と答えた人は31%となっている。

 世の中の動きや近未来の自分の姿が見えづらい不透明感。そしてお金や健康に関する不安感、不満感。これらが、すでに始まっている未踏高齢化社会の主旋律だ。


増えつつある老後難民・老後棄民

 隣人のライフスタイルは大いに気になるところだろうが、仲の良い友人と楽しい飲み会になっても、財布の中身という、あまりにも世俗的で微妙な話題に深く立ち入ることはあまりない。

 そこで金融広報中央委員会「家計の金融行動に関する世論調査」(2013年)を見てみる。これによると、金融資産の平均保有額は単身世帯798万円、2人以上世帯1645万円となっている。

 フィデリティ退職・投資教育研究所の2013年5月のレポート『サラリーマン1万人アンケート~払拭されない老後難民』によると、50代男性の40%は老後の生活のため「年金以外に退職後に必要となる資金」として3000万円以上を想定している。

 ところが、「退職後の資金として現在準備できている金額」と使途を絞って聞いた結果は、「0円」が50代男性で28%、50代女性で23%に上る。資産形成の時間がさほど残されていない彼ら・彼女らを待ち受けるのは、老後難民・老後棄民かもしれない。

 一言で言うと、保有資産の格差が拡がっているのである。「一億総中流」と呼ばれた時代はとうの昔に終わっている。


健康もお金次第

 国民の多くが不安を抱える健康については、フローとしての所得やストックとしての資産の格差によって直接影響を受けることが分かっている。

 社会疫学の調査によると、高齢男性の低所得者は、平均所得を得ている人に対して、うつが7倍、死亡率が3倍高い。愛する人を失った人、瑞々しい人間関係や社会的ネットワークから孤立している人は罹患率や死亡率が高い。また、社会階層や学歴が低い者ほど健康を害しやすいことも明らかになっている。

 貧乏人は病気にかかりやすく死にやすい。嫌な世の中である。

 その一方、現在医療サービスの先端では、旧来の医療サービスとは隔絶するイノベーションが日進月歩の勢いで次々と創発されている。病気が発症する前後での予防と治療の姿が激変しつつあるのだ。

 昨年、米国の人気女優アンジェリーナ・ジョリーさんが、遺伝子検査結果に基づいて、将来発症するだろう乳がんのリスクを回避するために「予防的乳房切除」を行ったというニュースが世界を駆け巡った。

 多くの人がこの話に驚いたと思うが、あと5年もすれば先進国や新興国の裕福な人々にとっては、遺伝子検査を受けて予防的な治療を行うことが当たり前のサービスになっているだろう。

 もっとも、今のところ日本ではがんの予防的切除術も抗がん剤の予防的服用も、公的医療保険の対象にはなっていない。これらの医療サービスを受けるとすべて自費診療となる。

 すなわち、お金持ちの人のほうが、そうでない人よりも、医療サービスのイノベーションの恩恵に浴する機会は圧倒的に大きい。そして、より高いレベルの健康を獲得することができるのだ。

 健康もお金次第なのである。


金持ち、健康、勝ち組の「3K」志向

 少し前置きが長くなったが、本題に戻る。

 冒頭で述べたように、生命倫理や医療サービス・イノベーションの講義で学生に「お金持ちになれば健康でいられる確率が上がり、貧乏だと深刻な病気になる確率が増える。これらの傾向には科学的な根拠がある。では、君はどうするか」とたずねたら、学生は臆面もなく「しっかり大学で勉強して、就活がんばって、ちゃんとした給料をもらえる会社に就職して、ちゃんとした人と結婚して、健全な家庭を持ちたいと思います」と答えた。

 この学生の主張をまとめると次のようになる。

がんばって勉強→良い学校→長期安定的な正規雇用

 日本では、この教条的な図式が心の中では暗黙的な支配力を持ちながらも、人前では批判的な見方をされている。

 自分の人生がこのレールの上を進むものであっても、あるいは、より本質的にはこのレールの上を走らされてきたとしても、人前ではこの図式をせせら笑い、例外を挙げ、「まあそうとも限らないよ」などと言ってみせることが無難な態度だろう。

 しかし、ことお金と健康に関するかぎり、このライフデザイン図式は有効だ。

 まじめに勉強→良い学校に入る→待遇の良い会社や役所で正規雇用の仕事を得る→一生懸命働いて賃金を得る→良い相手を見つけて結婚する→健康を維持・増進させる→健全な家庭を営む→複数の健康な子どもをきちんと育て上げる。

 このような「金持ち、健康、勝ち組」のパターンを、頭文字をとって「3K」とでも命名しておこう。3K志向を裏付ける具体的なデータを引いてみる。

 厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」(2013年)をもとに「しんぶん赤旗」が生涯賃金を試算したところ、正規職員は2億2432万円、非正規職員は1億2104万円になるという。その差は1億円もある。

 内閣府の「結婚・家族形成に関する調査報告書」(2010年)によると、20~30代の非正規雇用の男性の既婚率は6.7%、正規雇用の男性の既婚率は27.2%。両者の既婚率の差は実に20ポイントもある。そして、社会疫学の研究結果、既婚者に比べて非婚者は死亡率が女性で5割、男性で2.5倍高いことが明らかになっている。

 1981年以来、日本人の死因のトップは「がん」だ。そして、日本人の半分は一生のうちに1度はがんに罹患する。「がん患者白書2013」によると、非正規雇用の6割が罹患後に依願退職や休職に追い込まれる。一方、正規雇用の6割は罹患後も雇用され続けるという。


安定的なライフデザインを実現した人、できなかった人

 以上見てきたように、「がんばって勉強→良い学校→長期安定的な正規雇用」のパスに乗ることは、3K(お金を得て、健康を手中にし、いわゆる勝ち組ポジションをキープする)のためには目的合理的だ。

 だが、そこには一筋縄では解決できない暗い問題がいくつかある。2つだけ指摘しておきたい。

 第1に、このパスの内と外との間には、お金の格差、健康の格差、ライフデザインの格差が歴然と存在するということだ。

 全労働者数に対する非正規労働者数の割合は、1990年の20%から2013年には36%まで上昇していて、このパスへ入るためのチケットを手に入れることは年々難しくなってきている。

 働く世代の単身女性の3分の1は、貧困線の年収114万円未満しか稼ぐことができない。10代、20代のシングルマザーの8割が貧困状態で喘いでいる。毎年10万人近くの高校生が中退し、その多くは非正規の仕事に就く。

 だから、リクルートスーツに身を包んだ新卒者は、大挙して大企業の狭き門に殺到することになる。

 このパスから下方向に外れると、金持ち、健康、勝ち組の3Kではなく、キツイ、キタナイ、キケンの3Kとなってしまうのだ。

 人は、たとえ自分が絶対的貧困に陥っていなくても、周囲と比較して相対的な貧困を心象として感じるものだ。妬み、恨み、劣等感、優越感といった彼我を比較してしまうことから生まれる歪んだ心象は、人の健康を蝕みこそすれ、増進させることはない。

 階層格差が激しい米国では、「この階層間の相対的貧困という心象ファクターが、社会全体の健康レベルを押し下げる」ということが近年の社会疫学研究で明らかになってきている。

 格差は、下流のみならず社会全体の健全性、健康を損ねるのだ。

 第2の問題は、「がんばって勉強→良い学校→長期安定的な正規雇用」は、それ自体が過剰な同調圧力の発生源である点だ。めでたくこのパスに乗った人にとって、そこから退出することは大きなリスクを伴う。特に長期安定的な正規雇用を放棄して自分ならではのパスを創造していくのはとてもリスキーなことだと見なされる。

 このようなメンタリティーでは、クリエーティブなスキルや能力を持った人が、既存の組織のくびきから離れ自由自在に起業し、さまざまなイノベーションを創発してゆくことは容易ではない。

 現に日本国内の起業率は先進国で最低レベルだ。また、最近の経済産業省の調査によると、新たに会社を起こそうとする「起業希望者」の数が、バブル末期だった1987年の178万人から、2012年には約半分の84万人にまで減っている。

 さて、これらの要素を、前回述べた古代インドの人生訓「四住期」の教えに当てはめてみよう。要するに「学生期」にはがんばって勉強し、良いとされる学校に進み、「家住期」の人生前半における仕事関係の10万時間では、長期に渡って安定的な正規の雇用を確保し、そこで正規の賃金を得て結婚し、相対的に高い健康レベルを保持する。そういった人生前半のライフデザインの中で資産を蓄え、「林住期」「遊行期」の人生後半にある自由な10万時間に突入してゆくことが、未踏高齢化時代では、まずは無難な線なのだ。

 ここまで読んで、「そんな人生でいいのか」と感じ、チェッと舌打ちをするような読者に期待したい。


よそ者、ばか者、たわけ者になってみる

 さて、ここからはパラドックスだ。

 上に述べたような各種統計が示すような一般的なモノ・コト、一般的な傾向が、そのままの形でストレートに、一人ひとりの人生に当てはまり、起こるわけではない。

 モノ・コトは、とても複雑で個別性が強い人生においてランダムネス(雑然性)やタービュランス(乱流性)やストレンジネス(奇妙さ)を随伴しつつ創発する。自己組織的で複雑適応的な人は、雑然とした奇妙な乱流の中で新しい意味を紡ぎ、モノ・コトを起こすことによって、人生の物語はいくらでもカラフルに変えることができる。

 少なくともケアシフトの時代に生きる者にとって、そう確信することもメンタルな健康のうちだ。

 このような意味において、人生前半の労働に関係する10万時間と人生後半の自由な10万時間を、楽しみながら健康に過ごしていくコツは、モノ・コトを起こすスキルを磨いて、実際にコトを起こしてみることだ。

 定年後の10万時間を光り輝くゴールデン・エイジにするために、自分と社会をゆるく小さく結ぶソーシャル起業を勧めている。

 だが、いきなり起業とまでいかなくても、「ちょっと変わったこと」をやってみてはどうか。
それが元気であり続けるための秘訣であり、元気であれば何でもできるからだ。何かの気付きが得られれば、さらに儲けものといえる。

 「ちょっと変わったこと」の実践内容については、シンプルに考えてほしい。「よそ者、ばか者、たわけ者になること」。それだけでよい。

 よそ者になるのは簡単だ。それまで無縁だった環境に身を置くことから始まる。たとえば外国に行ってみれば自動的によそ者になれる。これは島国に住む日本人の特権みたいなものだ。

 よそ者になるということは、「周囲に対して異質の存在になる」ということ。ただし日本人同士が納豆のように密集しがちなパック旅行や海外の職場の中の日本人社会は避けよう。

 海外でなくても、都会から離れた知床半島や南アルプスなどの僻地へザック1つ持ってサバイバル生活をやってみてみてはどうか。大自然を目の前にして、完全なよそ者である自分自身と対峙せざるを得なくなる。

 余裕があれば、自分の実力以上の学校への留学を勧めたい。筆者も留学を経験したが、見知らぬ環境で優秀な人々に囲まれれば、ばか者(兼よそ者)にすぐになれること請け合いだ。ばか者はおのずと学ぶ動機をつかみ取る。

 現代の学生期は年代を問わない。いくつになっても勉強に取り組むべきだし、留学もその気になれば可能だ。

 たわけ者とは、すなわち「戯(おど)ける人」である。筆者の周りを見渡しても、「がんばって勉強→良い学校→長期安定的な正規雇用」というパスを無批判的に歩いてきて、そこから意図的に外れた経験がない人は、例外なく遊ぶことが下手だ。要するに真面目すぎるのである。

 すると、仕事の中でも融通無碍に遊ぶことができなくなってしまう。こういう人たちでは、いくら豊かなリソースを与えたところで、イノベーションを起こせるわけがない。そしていつのまにか社畜のようになってゆく。

 こういう生活を3~5年も続けていれば、遊ばない時間に人生が支配されてしまう。
だからこういう人たちから見れば、遊ぶ時間は「余暇」となってしまうのだ。「余暇」とは、文字どおり、労働時間を中心にして余った時間つまり「暇」を遊びに割り振る価値観を表している。

 私からすれば、それは本末転倒である。


ときにはドリフトしてみよう

 お金と健康という切り口から見れば、「がんばって勉強→良い学校→長期安定的な正規雇用」というパスを進むことは合理的な選択だ。しかし、このような選択の結果行き着く「良い仕事」を提供するはずの大企業内の環境は磐石ではない。

 労務行政研究所の「企業のメンタルヘルス対策に関する実態調査」によるとメンタル不調で1カ月以上の欠勤・休業者がいると回答した企業は6割を超えた。

 一見、お金、健康の観点では相対的に有利なパスのようには見えるが、リスクが横たわっているのだ。「がんばって勉強→良い学校→長期安定的な正規雇用」という人気のパスも、実際どっぷりつかってしまえば、ストレスに満ちているのである。

 だからこそ、よそ者、ばか者、たわけ者でいる時間が必要だ。要所、要所を押さえながらも、こつぜんと遊び、戯ける時間を確保し、ドリフト(漂流、流浪)する。
これもフィジカル、メンタル面において健康を獲得するためのコツである。

 そして、不安のない健康を手にしたら、何か新しいコトを起こしてみてほしい。それが自分の関わるコミュニティーへのケアに向かうなら、おのずとソーシャル起業につながっていくだろう。


 

日本が優先すべき5つの外交課題

先月のオバマ米大統領の訪日は、表面的には、あらゆる面で日本の共感を得る結果となった。日中間の地政学的対立で最大の火種である尖閣諸島(中国名・釣魚島)について、オバマ氏は米大統領として初めて、日米安全保障条約の適用対象だと明言。また、両国首脳は環太平洋連携協定(TPP)交渉についても、キーマイルストーン(重要な節目)を画したと発表した。

しかし、大統領訪日の成果は見掛けほど素晴らしいものではなかった。尖閣諸島に関する発言は従来の政策を改めて表明したに過ぎない。TPP交渉でも「キーマイルストーン」が具体的に何を示すかは明らかにされず、実際のところ、40時間に及んだ2国間協議は何の進展ももたらさなかったようにみえる。中国の怒りを招くことなく日本をなだめたオバマ氏は今回の訪日で大きな勝利を収めたが、日本が中国の台頭にどう対応すべきかという解決策は示されなかった。

米国が外交政策から距離を置き、中国が影響力を急速に拡大する中、日本は地政学的に差し迫ったポジションに陥っている。しかし、日本にはまだ選択肢が残されている。日本が優先すべき外交政策は以下の5つだ。

1.アベノミクスの推進

日本の最優先事項は、安倍晋三首相が掲げる経済政策を徹底的に進めていくことだ。安倍政権は最近、安全保障問題への取り組みを強めているが、日本経済の勢いは維持されており、それは今後も継続する必要がある。

経済の軌道を長期的に上向かせることは、日本にとって最も重要な課題だ。そうすることで日本はより魅力的なパートナーとなるほか、経済力によって域内問題への影響力を高めることもできる。アベノミクスを推し進めることは、安倍首相が得た政治的資本の最も有益な使い方だと言える。


2.中国が狙う日米間の「亀裂」拒否

中国にとって、日米間に亀裂を生じさせることは重要な戦略だ。昨年11月に中国が東シナ海上空に防空識別圏(ADIZ)を設定した時点から、この戦略は明確に示されている。ADIZ設定以降、日米の姿勢にずれが存在することも分かってきた。例を挙げると、日米両国は中国が設定したADIZを拒否したが、撤回を求めたのは日本だけだ。また、中国は日本の反応を激しく非難したが、一方で米国への対応は控えめだった。

日本は今後、東シナ海やアジア地域の安全保障で米国と連携を図っていく必要がある。オバマ政権が日本寄りの姿勢を見せなければ、安倍政権は政治的に可能な限り、米国に合わせた発言をより積極的に行うべきだ。日米両国は中国に対して一致したメッセージを発信しなければならない。


3.日ロ関係の維持、欧州との連携強化

東シナ海情勢に関しては日本は米国と足並みを揃えることが不可欠だが、対ロシア関係では同様のアプローチは問題となる。2012年12月の第2次安倍内閣の発足以来、安倍首相はロシアとの関係修復に相当な努力を重ねてきた。ロシアのプーチン大統領との会談は5回にわたり、領土問題に関する協議や2国間関係の正常化で大きな進展をみせてきた。しかし、日本が先月末、ウクライナ問題をめぐりロシアへの追加制裁を発表したことで、安倍首相のこれまでの成果がリスクにさらされている。

もちろん、日本にとって米国に直接「ノー」と言うのは困難で、その必要もない。その代わりに、日本は欧州の同盟国と緊密に連携し、追加制裁の対象やペースを緩めるようオバマ大統領に働きかけるべきだ。西側諸国とロシアの経済関係悪化によりロシアはアジア諸国に目を向けることになり、最大の利益を得るのは中国になるだろう。日本は今、対ロ関係で絶好の機会を手にしており、その関係は継続させる必要がある。

また、日本と欧州連合(EU)は、包括的な貿易協定の分野でも連携を強化すべきだ。安倍首相は先に、ファンロンパイEU大統領とバローゾ欧州委員長と会談し、経済連携協定(EPA)交渉について2015年の妥結を目指すことで合意している。


4.インドとの関係強化

世界の歴史上最大の民主選挙が終わりに近づくインドだが、予想される最大野党インド人民党(BJP)のナレンドラ・モディ氏の勝利は、日本に新たな機会を提供するだろう。国内市場改革を後押しするために、モディ氏は先進工業国とのパートナーシップを推進するとみられる。また、日本にとってインドは、中国の台頭に不満を感じ、かつ中国の影響下に吸い込まれるには存在が大きすぎるという点から、申し分のないパートナーだ。

日印貿易は過去5年間で80%増加したものの、その額はわずか180億ドルだ。2012年の中印貿易は670億ドル、日中貿易は3340億ドルに達しており、日印貿易には拡大の余地が大きい。


5.米国主導の多国間協定

農業分野などから関税引き下げをめぐり抵抗を受けても、日本はTPP交渉を推し進めなければならない。TPPが実現すれば、参加12カ国が関税や非関税障壁の撤廃を通じて得る経済的利益は数千億ドルに上るとみられる。

TPP交渉が成功すれば、長期的に中国の貿易面での姿勢改善につながる可能性がある。中国に門戸を閉ざすのではなく、TPP加盟国が中国に対し、外国企業の権益や知的財産の保護などで特定のルールや基準の導入を促すこともできるだろう。

また、日本はさらに歩を進め、米国やアジア諸国と安保面での合意に向けても基礎作りを始めるべきだ。多国間の安保協定があれば、東シナ海や南シナ海の領有権をめぐる衝突などに備えたルール整備も可能で、中国に対して関係各国が共有する懸念にも生かすことができるだろう。

しかし、日米、そしてアジアの同盟国は、中国が方針を転換させた場合に備えて門戸を開いておくことも非常に大切だ。中国台頭への対抗措置として組織された安保条約に、同国が加わる理由などあるだろうか。

米国が中東地域へのエネルギー依存を低下させているのに対し、中国は逆に依存を高めており、同国が中東での混乱にさらされる可能性は徐々に高まっている。米国はアジア太平洋地域で中国により安定した行動を求める代わりに、中東の安全保障では大きな役割を果たすという、安全保障の「交換取引」が生まれる可能性もある。こうした状況は日本、そして世界経済にとっても好ましいだろう。



*国際政治学者イアン・ブレマー


 

ウクライナ問題  紛争の現状と背景

< ガス代が払えない >
ウクライナが、ロシア依存からEU依存へ資金提供者を鞍替えすると、
(1)ロシアからの輸入するガス価格の大幅ディスカント契約
(2)黒海艦隊基地(セバストーポリ)の使用料を、ガス代金と相殺する契約
の双方を失う。(5月8日現在、失っている)

これまでのウクライナは、自国消費量をはるかに上回るガスをディスカウント価格(95ドル)で輸入(一部は勝手に抜き取り)して、それを正規価格(230ドル)で輸出することで「巨額の転売利益」を不労所得として得てきた。

そもそも自国で消費するガスの輸入代金(正規料金での)を払い続けられるキャッシュ・フローをウクライナは持っていない。上記(1)、(2)を所与とする生活を何十年もしてきたからだ。


< 強国に翻弄されるウクライナ >

ゴルバチョフの登場(1985年)、その後の冷戦終結(1989年)を経て、1991年のソ連崩壊でようやく、ウクライナは独立した。

独立したとは言え、1:統一された国家の経験がほとんどなく、2:部族間対立が日常茶飯事の遊牧民族気質という精神構造は変わらず、また3:国の東西をロシアとドイツという2大軍事強国に挟まれるという地政学的宿命もあり、苦労してでも自主独立を維持するよりも「誰かの援助に依存」する安易な国家経営から脱皮できないまま今日に至っている。

2010年に選出された親ロシアのヤヌコヴィッチ大統領でさえも、「EU&USの金銭的援助か?」、もしくは「ロシアの低価格ガスか?」という“親分選択を二股に賭ける”コウモリ的な政治行動に終始した。

2013年11月にEUとの連合協定を締結直前で反故にしたのも、EUが示した援助の条件が厳しすぎる(返済が必要なローンでは無く、返済不要な贈与をウクライナは期待していた)ので、急遽ロシアのガス・ディスカウント(返済不要の贈与として機能する)へ秋波を送った。

しかし、「親EU路線から、親ロシア路線への変更」が「2004年~2010年のオレンジ革命を支えた親EUグループ」によるクーデタの引き金となり、今日のウクライナ紛争に発展した。

 
< 民主主義選挙で成立した政権をクーデタで倒した>

ウクライナ紛争は、客観的に見れば、「民主的な選挙によって成立した政権(多数派)」を「デモとメディア操作」によって、少数派がクーデタで打倒した、という評価になる。

日本は、「いわゆる西側陣営」に属している。敗戦後は「国際政治ではアメリカの言いなり」という状態であり、何事もアメリカの主義主張、政策、制度が正しいと判断しがちだ。

資本主義>社会主義、キリスト教>イスラム教、個人の自由>社会全体の秩序、などを含め、旧ソ連や中国、ムスリム諸国などの考え方は間違っていると判定する傾向が強い。

その結果、現在のウクライナ暫定政権は、「デモとメディア操作によるクーデタで生まれた。」と言われると違和感を持ってしまうが、国際政治の専門家レベルではそれが定見である。


< 東西冷戦は続いている >

2014年2月、USのウクライナ大使パイアット氏とヌーランド国務長官補の通話内容がYouTubeを通じて世界中に公開された。その内容は・・・

1:親ロシアのヤヌコヴィッチ政権を倒して親EUのヤツェニュク政権を発足させる。

2:国連によるウクライナへの介入(=ヤヌコヴィッチ政権打倒)をUSは画策しているが、それに反対するEUを「fuck EU(EUなんか、くそくらえ)」と侮蔑

米国務省は、この会話内容が本物であることを認め、ヌーランドはEU側に謝罪した。なお、現在の暫定政権の首相はヌーランド氏の希望したヤツェニュクが就任している。

また、US議会の公聴会等を通じて、

1:ヌーランド国務次官補とパイアット大使は、クーデタを後押しした。

2:ウクライナ暫定政権側は、クーデタの実行に際して、メディアを利用して、デモを扇動し、ヤヌコヴィッチ政権を崩壊させたが、そのメディア対策費用を支えたのは、US政府とソロス財団からの資金援助だった。

という事実認識が専門家の間では一般的になっている。

 
< 民主主義は輸出するが、経済は自助努力を要求 >

いわゆる西側陣営は、民主主義は意欲的に輸出するが、経済援助は限定的な規模に留まる。USもEUもかつてのような財政的な余裕がなくなったので、気前の良い金銭的な無償援助ができないのだ。

ロシアの状況も、資源エネルギー価格の高騰が終わった現在では、US&EUに似てきた。

親ロシアのヤヌコヴィッチ大統領でさえも、ロシアが提示するガス価格の値引き率が以前よりも小さくなった事態に直面し、「EU&USの金銭的援助か?」、もしくは「ロシアの低価格ガスか?」という二股戦略を採用せざるをえなかった。

なお、アメリカが反ロシア派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシアから弾圧を受けた多くのウクライナ人がアメリカに亡命した歴史が関係している。

ソ連崩壊以前に西側自由世界、特にUSに逃げ出した人々は、「ロシア憎し」の気持ちが強く、「強硬な反共主義」に凝り固まっている。
彼、彼女らは、民主主義的な選挙で選出された政権であっても、それが親ロシア政権であれば、非合法手段を使ってでも政権を打倒するようにUS政府に働きかけるらしい。

今回のウクライナに関しても、USからの資金援助がヤヌコヴィッチ政権転覆を目論むグループに渡された事が明らかになっている。

 
< ウクライナの要求は、民主主義よりも無償資金援助 >

EU陣営に加担すれば巨額援助が来るとの夢を見て、デモとメディア操作でクーデタを起こし、民主選挙で選出されたヤヌコヴィッチ政権を倒した。しかし、暫定政権はEUに対して不満をもらしている。

EUなど西側世界からの資金援助は返済が必要なローンだ。しかも、最近決まったIMFのローンの金額(当座の$3.2bn、全体で$17bn)は、ウクライナが要求した$35bnの半分に過ぎない。

無償援助じゃないのか? ロシアは市場価格以下のガス価格を使った事実上の無償援助なのにと、ロシアからEUに乗り換えた報酬を、ウクライナは西側世界に要求している。

西側陣営は、資金援助は民主主義を広げることが目的だと主張する。
そもそもお金で民主主義を購入したり、移植することはできない。

民主主義は国民が育むものだ。様々な試行錯誤、多くの失敗を経て民主主義に到達するもので、それには時間がかかる。

西側欧米諸国が民主主義を輸出しようと、性急な資金援助をしても、その資金は現行政府の転覆には効果的だが、その後の民主主義の育成には使われず、新政権内部の権力闘争や汚職構造を生み出す要因になってしまうことが多い。

現在のウクライナには民主主義が成立する民度やモラル(自己利益を犠牲にして相互に妥協するのが民主主義のエッセンス)が非常に低い。

ウクライナ政治の汚職度は、世界の中で最悪レベルと判定されている。援助資金は政治家のポケットに消えていくだろう。


< クリミア、戦争の勝敗によらない国境変更 >

ロシアによるクリミア併合は国境変更だ。しかも、戦争の勝敗によらない国境変更だ。良し悪しは別判断だが、21世紀に起こった画期的な事件である。

2013年秋ごろから、ウクライナの政情が不穏になり、年明け2014年に一気に事態が加速した。しかし、多数の死者を出すようなテロや内戦は起こらなかった。

平和裏に「クリミア」がウクライナから離脱して、ロシアに併合された。

クリミア自治共和国議会で、ウクライナからの独立とロシアへの帰属の議決が行われ、3月16日に住民投票が実施された。投票率82%、賛成96%、という圧倒的に多数の賛成が得られた。

間髪を入れず、3月18日に、ロシアのプーチン大統領は、クリミアをロシアに編入した。

クリミアは、歴史的(前回、前々回記載)にも、また直前でもウクライナ内の自治共和国という状態であり、ウクライナとの一体感が希薄な地域であったとは言え、ウクライナ暫定政府が、武力に訴えてでもロシアの行為を阻止しなかった背景は・・・

1:ロシアとの圧倒的な軍事力格差ゆえ、ウクライナが手を出せなかった。

2:EUやUSも、ウクライナに軍事的な支援を実施しなかった。(5月7日現在でも軍事不介入方針が維持されている)

・・・という事である。

 
< 世界中に存在する帰属問題 >

20世紀に起こった戦争や植民地の独立を通じて、多くの国家が生まれた。

発端はUS大統領ウィルソンが第一次世界大戦中に提唱した民族自決の原則だ。

しかし、現実に生まれた新国家は、民族の境界線とは無関係に植民地の宗主国からバラバラに独立した。
また時には民族を分断する事を通じて民族が団結して強力な勢力にならないように、国境が決められた。植民地宗主国の国際戦略だった。

その結果、現在の多くの国で「少数民族問題」が噴出している。

クルド民族は、トルコ(1140万人)、イラク北部(600万人)、イラン北西部(660万人)、シリア北東部(280万人)など、中東の各国に広くまたがって住んでいる。クルド人の居住地域が一体となって独立することは、民族自決の原則に合致するが、トルコ、イラン、イラク、シリアは猛烈に反対している。

中国の新疆ウイグル自治区などムスリム居住地域や、チベットも、同様だ。

クリミアの分離独立とロシアへの併合が提起した問題は、

1:分離独立が、民主的な住民投票で圧倒的な多数を得た時、これまでのように軍事警察という手段で圧殺するのか、

2:地域住民の支持を失った政府や国家は、どう対応するのか

3:国家の支配とは、非民主的、暴力的手段が、これまでどおり許されるのか

・・・という民主主義と国家の基本概念を問うている。



 

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