人生という名の遊び場で、いま、ここを活かされ、すてきに活きる

時代の本質をとらえた、心に残るすてきなメッセージ[構想、視点、こころ]と、新たな気付きをあなたに届けます。みずみずしく、活き活きとした、すてきな旬(ときめき)を一緒に探しにいきましょう。      ◆◇たきがみ博士が選ぶ”すてきなメッセージ”のおすそわけ◇◆

2017/03

ここでは幼児から小学6年まで、各自好きなことをして、一日中、思いっきり遊んで帰る。
時間割などないし、勉強時間もはまったくない。
(勉強したければ、しても良いし、本も読める)
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1人でもいいし、年齢の違う子や、だれと一緒になっても構わない。
一日中釣りをしたり、缶けりしたり、絵を書いたり、裁縫したり、基地を作ったり・・
どんなに汚れたってまき風呂にいつでも入れる。
お料理に興味がむけば一緒に作る。
使う米も野菜も目の前の田畑で育て、収穫する。
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先生方は何もしないのかというとそうではない。
一緒に遊ぶこともあれば、できるだけ見守るだけだが、必要なときには、適切な介入をする。
その介入のしかたが適切だったか、いつも研鑽を重ねている。
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毎日、好き放題にやらせて・・
 
それじゃあ、先生の言うことを聞かなくなるのでは?
努力しなくなるのでは?
辛抱できない子どもになるのでは?
 
そんな心配をしてしまいそう。
 
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誰もが100年生きうる時代をどう生き抜くか。
働き方、学び方、結婚、子育て、人生のすべてが変わる。
 
目前に迫る長寿社会を楽しむバイブル。

世界で活躍するビジネス思想家が示す、新しい人生のビジョン。

みんなが足並みをそろえて教育、勤労、引退という
3つのステージを生きた時代は終わった。

では、どのように生き方、働き方を変えていくべきか。
その一つの答えが本書にある。

100歳時代の戦略的人生設計書。




170321LIFE SHIFT(ライフ・シフト)



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教育ニ関スル勅語「教育勅語」               高橋源一郎

 教育勅語とは、明治天皇の名のもとに、1890(明治23年)に発せられた「教育ニ関スル勅語」のことを指します。

170318


教育勅語①
「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」

教育勅語②
「きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです」

教育勅語③
「その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」

教育勅語④
「そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません」

教育勅語⑤
「もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」

教育勅語⑥
「というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです」

教育勅語⑦
「いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです」

教育勅語⑧
「そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。

以上! 明治二十三年十月三十日 天皇」


*明治神宮の公式サイト 口語訳
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
 
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

~国民道徳協会訳文による~


「ノブリス・オブリージュ」という言葉があります。

 「高貴な人の義務」という意味の言葉。

 高貴な身分に生まれついた人間には、
 人々に奉仕し、献身する義務がある。

 その思想を表した言葉です。

 事実、この思想が大切にされてきた英国では、
 第一次世界大戦において、
 貴族出身の下士官の死傷率が
 群を抜いて高かったと言われます。

 それゆえ、この言葉を聞くとき、我々は、
 その奉仕と献身の精神に共感を覚えるのですが、
 貴族という階級を前提とした思想に
 ささやかな抵抗を感じます。

 しかし、この言葉を深く見つめるとき、
 それが、実は、
 逆の意味を持っていることに、気がつきます。

 「高貴な人が自覚する義務」ではなく、
 「義務を自覚する人の高貴さ」

 たしかに、
 人々に奉仕し、献身することの義務を自覚した人間には、
 不思議な高貴さと、香りがあります。

 「ノブリス・オブリージュ」

 貴族階級が消えた現代において、
 いつか、この言葉が
 その意味において使われる時代が、来る。

 そして、そのとき、
 「義務」という言葉は、
 「使命」という言葉と、同じ響きを持つようになる。

 この言葉の余韻の中に、我々は、
 その予感を抱くのです。



 田坂広志

働くことこそ生きること、何でもいいから仕事を探せという風潮が根強い。しかし、それでは人生は充実しないばかりか、長時間労働で心身ともに蝕まれてしまうだけだ。しかも近年「生きる意味が感じられない」と悩む人が増えている。結局、仕事で幸せになれる人は少数なのだ。では、私たちはどう生きればよいのか。ヒントは、心のおもむくままに日常を遊ぶことにあった――。独自の精神療法で数多くの患者を導いてきた精神科医が、仕事中心の人生から脱し、新しい生きがいを見つける道しるべを示した希望の一冊。

頭も心も同じようなものだろうと思っている人は少なくないと思いますが、それは間違いです。「頭」とは理性の場であり、一方の「心」は感情や欲求、感性、直観の場で、「身体」と分かち難くつながっています。例えば「頭」は仕事を進めるための情報処理を行い、過去を分析したり、未来を予測したりします。それに対して「心」は野生原理の感情や欲求の場ですから、仕事はしないで「休みたい」とか「眠りたい」「遊びたい」とかいう欲求を抱えていたりします。

 本来、動物は「身体」と連携した「心」のみでできているのですが、近代以降の人間は、「頭(理性)」が思い上がって「心」の出した結論を軽視し却下しがちなのです。「頭」が「心」の欲求に常に「フタ」をしてしまっているのです。「頭」が「心」を強力にコントロールしようとしているわけですね。これでは、うつ病などの精神的な病気を引き起こしてしまうのも仕方のないことです。

「日本語では主語が省略されることが多い」と私たちは学校で習ってきましたよね。その考え方で言えば、省略されることは多いものの、日本語に主語はあることになります。でも、そうではなくて、一見、主語とされているものは「主題」を立てているだけであって、そもそも欧米語のような主語がないのではないかという議論が近年活発になっています。そのため、日本語を用いる私たちは、「私」という一人称がない未熟な「0人称」にとどまってしまうという傾向を帯びているのです。

日本語では自己と対象の主客が合一的で、その間の境目があいまいです。話者は個人主義の欧米人のような確固とした主体を持っておらず、相手との関係によって話す内容さえも変化してしまいます。言い換えれば「誰」が言ったかはあまり問われない社会。「誰でも同じ意見である」「同じ価値観を持っている」という前提に立った社会であるとも言い換えることもできます。自分もほかの人間も考え方は同じだから、あえて主語を明示する必要はないということになるのです。

日本人の陥りやすい最大の問題点は、自分と人との「関係性」を最重要視してしまって、「関係性」を守るがために個人の方が歪んでしまうというところにあるように思います。その結果、個人が精神的に追い詰められていく。

小さな子供が無心で遊ぶように、大人も「心」を中心にして、生活全体を遊ぶべきなのです。ただし、それは大人ならではの成熟した遊びであり、頭脳を駆使した創造的な遊びになるでしょう。身近なところで具体的に言えば、料理とか日曜大工、音楽などもよいだろうと思います。実際にそういう「遊び」を仕事にまでしてしまった人もいます。

現代人は、もはやハングリーに働かなくてもさすがに死ぬほどのことにはならないのに、「働くことこそ生きること」という“労働教”にいまだに洗脳されたままなのです。戦後すぐの時代の人々がハングリーに働くことが不可欠だったのは事実ですが、今はもう、そういう時代ではありません。にもかかわらず、日本人は「ハングリーモード」のスイッチを戻せなくなってしまっている。生きる手段に過ぎなかった「ハングリーに働くこと」自体が、自己目的化してしまっているのです。もっと一人ひとりが「生きる意味」を大切に生きてもよいのではないでしょうか。

誰でもいつかは必ず死ぬわけです。世間に振り回されている人が、最後に一番馬鹿を見るのではないでしょうか。「心」が本当にやりたいことをやらない人生なんて、後悔してもし切れません。


 大学闘争の嵐が吹き荒れていたキャンパスの
 正門前に掲げられた立看板。

 そこに、大きく書かれていた言葉が、
 いまも、心に残っています。


  力及ばずして敗れることは、辞さないが、
  力尽くさずして挫けることを、拒否する。


 当時、多くの学生の心をとらえ、
 彼らを変革の闘いへと駆り立てたこの言葉を
 数十年の歳月を経て思い出すとき、
 一つの問いが、心に浮かびます。


  この言葉は、あの時代の若者たちの
  単なる自己陶酔と英雄主義の言葉だったのだろうか。
  それとも、それは、あの時代の若者たちの、
  覚悟と矜持の言葉だったのだろうか。


 その問いを静かに問うとき、
 心の深くから、声が聞こえてきます。


  その答えは、まだ定まっていない。


 そして、その声とともに、
 一つの思いが、心に残ります。


  その答えが定まるのは、
  いま、ではない。

  あの若者たちが、その生を終える、その日に、
  答えが定まる。


 その思いが、心に残るのです。



 田坂広志

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