Yコンビネーター主催のイベントに参加して

「シリコンバレー最強のスタートアップ養成スクール」と呼ばれるYコンビネーター。彼らが主催する起業志望者向けの講演イベントに、わたしは先月参加してきた。

Mark Zuckerberg氏(Facebook創業者)、Jack Dorsey氏(Twitter創業者)、Phil Libin氏(Evernote創業者)ら超有名人の話を聞くことができ、どのセッションもなかなか楽しめたのだが、わたしがいちばん聞き入ってしまったのはBalaji Srinivasan氏の講演だった。

Srinivasan氏はCounsylという成功した遺伝子解析の会社を立ち上げた起業家で、スタンフォード大の講師でもある。

今日はみなさんにシリコンバレーのExit戦略の話をしましょう。まずは、タイムリーな話ですが、「アメリカはマイクロソフト化しているのか?」という問いからはじめたいと思います。

アメリカとマイクロソフトの共通点を洗い出してみましょう。コード(憲法)は古くて難解。二週間以上もシャットダウンする(政府機関)。ウイルス(大量破壊兵器)が危ないからといって新製品を売る。経営資源(天然資源)を手に入れるためなら手段を選ばない。消費者は相手にせず、大企業の機嫌ばかりをとる。しかし、こんなにダメダメでも誰も逆らえない。

さて、マイクロソフトといえばビル・ゲイツですね。彼は1998年にこう言いました。Oracleなどの大企業は怖くないが、どこかのガレージで変なことをやってる連中が怖いと。

それがラリー・ペイジとサーゲイ・ブリン(グーグル創業者)だったというわけですね。

ラリーとサーゲイは、マイクロソフトを内側から変えることはできなかったでしょう。当時、マイクロソフトは2万6000人もの社員を抱えていました。社員2万6000番目と2万6001番目が、昼食の無料化とか20%ルールの導入を訴えたとしても聞き入れられるわけがない。

だから彼らは起業しました。「にげる」を選んだのです。そして後に、成功したグーグルを、マイクロソフトが真似をするようになった。

これは政治学の基礎である「離脱」と「発言」という考え方に通じるところがあります。

衰退している国や会社の一員には、発言か離脱という二つの選択肢があります。発言、すなわち「たたかう」とは内側から変革を起こすこと。それに対して離脱、すなわち「にげる」とは外に出て新しい会社や社会構造を作ったり、敵対する会社や国に行くことです。

そして忠誠、つまり「なつき度」がこの二つのバランスを取る役目をします。「なつき度」は愛国心のように自発的な形をとったり、囲い込みのように強制的な形を取ることもあります。

分かりやすいように、「たたかう」と「にげる」をみなさんの身近なものに例えてみましょう。

たとえば、オープンソースの世界では、「たたかう」はパッチを送ること、「にげる」はプロジェクトをフォークすることです。

(補足: 公開(オープンソース)されているプロジェクトのコードをプログラマーが流用しようとすれば、たまに不具合を見つけたり、自分の使用用途に合わないことがある。その場合、「パッチを送る=コードの修正案を送る」か、「フォークする=自分専用にコードをカスタマイズして、元のプロジェクトから新しいプロジェクトを派生させる」のどちらかをプログラマーは選ぶことができる。)

ビジネスの世界では、お客様にとって「たたかう」は苦情を言うこと、「にげる」は付き合いをやめることです。

会社員にとって、「たたかう」は会社に残ること、「にげる」は辞めて起業することです。

そして市民にとって、「たたかう」は投票をすること、「にげる」は移住することです。

スライド左の画像はノーマン・ロックウェルが言論の自由、すなわち「たたかう」について描いた絵です。右の画像は私の父親がインドにいた頃の写真です。隣にわら小屋が見えますね。地べたに寝て育った父は、生きている間に暮らしが良くなることはないと考えました。投票しても何も変わらない。だから父はアメリカに「にげる」と決めたのです。

アメリカは民主主義の国。選挙によって「たたかう」ことが大切だと教えられます。しかし、アメリカは母国を捨てた人たちが作った国でもあります。つまり、アメリカは「たたかう」と「にげる」によって作られた国なのです。

迫害を受けたピューリタンからアメリカがはじまり、イギリスから独立を選んだ人たちが続きました。土地を求めて東海岸から西海岸へと大陸を横断した人や、ロシアやナチスでの集団虐殺から逃れたり、南ベトナムから亡命した人もいます。豊かさのためだけではなく、自分の命を救うために「にげる」を選んだのです。

アメリカだけではありません。シリコンバレーも「にげる」によって作られたのです。ショックレー研究所を辞め、フェアチャイルドセミコンダクターを創業した8人から、シリコンバレーは始まりました。カリフォルニア州では競合禁止条項がほぼ無効であること、ベンチャーキャピタルが「にげる」人に資金を与えることも追い風になりました。

オープンソースプロジェクトをフォークすることも「にげる」ですし、ここで生まれたネットスケープがブラウザに「戻る」機能をつけたのも、ある意味「にげる」です。もちろん、起業も「にげる」ですね。ちなみにこの画像は「(起業せずに働いたら)ラリーとサーゲイに、お前は軽いやつだと思われるよ」というYコンビネーターの最初の広告コピーです。

ここで大切なのは、「にげる」人は「たたかう」人に力を与える、ということです。

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たとえば二つの国があり、国①は政策Aを施行し、国②が政策Bを施行していると仮定しましょう。国①のなかにも政策Bを支持する人はいるのですが、多くの人は政策Aを支持しています。

しかし国②は政策Bを施行しているので、国①のなかでも政策Bを特に強く支持する人たちは国②に移住します。その様子を、国①の中で政策Bに傾きかけている人たちが見ると、「国①も政策Bにするべきではないか」という声が広がります。「にげる」人が「たたかう」人の声を増幅させたのです。

このように、民主主義に大切なのは「にげる」という選択肢を増やすことです。群をなして「にげる」人が増えるほど、「たたかう」人は残った人からの支持を得ることができます。

「にげる」選択肢が無ければ、ここにいるみなさんの半分は生まれてこなかったでしょう。我々の先祖は中国・ベトナム・韓国・イラン、ほかにも戦争や飢饉で苦しんだ国から移り住んで来たのです。

それゆえ、われわれは「にげる」という選択肢を何としてでも守り通さないといけません。

つまるところ、「にげる」とは代替手段という意味です。競争、起業、移民などの概念も、すべて「にげる」に帰結します。「にげる」とは、政治家にならずに、または暴力に手を出さずに、悪政から身を守る唯一の方法です。

さて、アメリカの話、シリコンバレーの話、そして「にげる」の話をしましたので、本題に入りましょう。シリコンバレーのExit戦略、つまりアメリカからシリコンバレーが「にげる」という話です。

シリコンバレーの次の10年の繁栄は、「アメリカ政府の決め事を、ロビー活動やデモ活動なしに無効化できるか」にかかっています。

なぜそう断言できるのか? それは現在、シリコンバレーv.s.ペーパーベルトという図式ができているからです。

ペーパーベルトとは、紙媒体によって成長し、戦後のアメリカを牛耳った4つの都市のことです。

大学(蔵書)のおかげで栄えたボストン。広告・金融(紙幣)・出版・新聞のおかげで栄えたニューヨーク。台本のおかげで栄えたロサンゼルス。そしてもちろん、法律のおかげで栄えたワシントンDC。これらを、昔のラスト(製造業の)ベルトにちなんでペーパー(紙の)ベルトとわたしは呼んでいます。

そしてここ20年の間に、どこからともなくシリコンバレーが現れ、ペーパーベルトが束になっても敵わないほど強くなってしまいました。

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 シリコンバレーは先ほど挙げた都市の産業を全てひっくり返しているのです。99年のNapsterからはじまり、ロサンゼルスはiTunes・BitTorrent・Netflix・Spotify・Youtubeの手に落ちました。

ニューヨークはAdWords・Twitter・Blogger・Facebook・Kindle・Aereoにお株を奪われています。Madison街の広告も、出版も、テレビもわれわれの手のひらの中です。ちなみにAereoは独自のアンテナを使って(ケーブルテレビの)好きな番組を好きな時間に見れるサービスです。

ボストンもKhan Academy・Coursera・Udacityといったオンライン教育サービスの標的になっています。

ワシントンDCや州政府に対しては、Uber・Airbnb・Stripe・Square・Bitcoinなどが規制の抜け道を作っています。政府にはもはや、規制したいものを規制する力は無いように見えます。

このようなペーパーベルトの弱体化を、私はペーパージャム(紙詰まり)と呼んでいます。

そしてペーパージャムはシリコンバレーのせいにされています。機械が人間の仕事を奪い、IT長者は増えても貧乏人の暮らしは良くならないというのがペーパーベルトの言い分です。

経済の弱体化はiPhoneやGoogleのせいで、不公平な銀行の救済、古いビジネスモデルの破綻、戦争に首を突っ込んだせいではないという妄言を吐いているのです。

われわれはこの主張を否定しないといけません。その手段のひとつが「たたかう」です。

手始めに「シリコンバレーはモノの価格を下げる」という反論をしてみましょう。

技術が発達すればするほど、モノは貧困層にも届くようになります。携帯電話はもともと1%の人間のものでした。ですが、技術製品の強みである複製のしやすさとスケールメリットが生かされ、いつのまにか5%、10%、20%、50%、そして99%への人間へと携帯電話は広まりました。

技術がモノの価格を下げるからこそ、携帯電話はウォール街のおもちゃから最貧国のライフラインとなったのです。ムーアの法則も似たような話です。

他方、ペーパーベルトはモノの価格を上げることしか能がない。高等教育バブル、住宅バブル、医療費バブル、他にも数えきれないほどのバブルをペーパーベルトは産んだのです。

以上の理由から、ペーパーベルトによる「アメリカの停滞はシリコンバレーのせいだ」という説が支離滅裂であることは自明です。

しかし、「たたかう」だけでは議論が平行線をたどる一方でしょう。その場合、「にげる」を余儀なくされるかもしれません。

先ほどの例を一歩先に進めてみましょう。ペーパーベルトは「政府がアメリカを掌握すれば、仕事が人の手に戻る。シリコンバレーがアメリカを掌握すれば、市民がターミネーターに支配されているようなものだ」と主張しています。

それに対し、われわれは「政府がアメリカを掌握すれば、そこら中の家がデトロイトの放火された家みたいになる。シリコンバレーがアメリカを掌握すれば、そこら中の家がGoogleのビルみたいに立派になる」と切り返すこともできます。

しかし、仮想上の未来を論拠にしては議論が進みませんし、政府に本気で戦いを挑むのは懸命ではありません。なにせ彼らは軍用機を持っているのですから。

このように話が通じない相手には「にげる」が一番の反論となります。物理的に「にげる」必要はありません。ペーパーベルト信者を巻き込むことなく、シリコンバレーが支配する社会がどのようなものかを世の中に見せつければいいのです。

これがわたしの提唱するシリコンバレーのExit戦略です。

ざっくり言うと、技術によって運営されるオプトイン社会を作ろう、ということです。できればアメリカ国外に。

次の10年間、世の中はこの方向に向かって進んで行くでしょう。シリコンバレーはすでにはじめの一歩を踏み出していますし、モバイルもこの方向に向かっています。モバイルといっても、ロケーションベースのアプリの話ではなく、物理的な距離という概念を壊す、という意味でのモバイルです。

ラリー・ペイジは、「世界の一部を切り取って規制ゼロの特区を作り、従来では不可能な実験ができる場所にしたい」と発言しました。巧みな言い回しですね。アメリカから法律を取り払うとは言っていません。「わしの国はやらんぞ」と言うのならばそれで結構、ということです。

マーク・アンドリーセン(ネットスケープ創業者)も「これから先は新興国がたくさん生まれるだろう」と予言しています。冷戦後、国の数は増え続けていますしね。

実験が上手くいった国からは学ぶことが沢山あります。シンガポールの医療システムは世界が手本とすべきものになりましたし、エストニアでは駐車場のデジタル化が成功しています。

後進国はリスクを取らずに模倣するだけでいいのです。リスクは取りたいものが取ればいい。「にげる」が「たたかう」を助けるのです。

考えてみれば、会社を作るのに戦争を起こす必要はないですよね。前社長に決闘を挑む必要もありません。同じように、戦わずに新しい国を作ることは可能なのです。

Paypalマフィアでいうなら、ピーター・ティールは海上に起業家のための独立国家を作ろうとしているし、イーロン・マスクは火星にコロニーを作ろうとしています。

そこまで大掛かりなことをする必要はありません。ハッカーニュースに上がっていた記事ですが、とある起業家がつい最近、小さい島を購入したとのことです。カナダのどこかにある寒い島で、オアフ島には似ても似つかない。

しかしここの不便さがミソなのです。彼らを馬鹿にする人たちや、技術を嫌う人たちが追ってこないからです。

これが「にげる」のいいところです。「にげる」は大々的にやってもいいし、小さな一歩だけでも構わないのです。

みなさんに島を買えとはいいません。リモートで働くことも「にげる」です。テレビを見ず、Reddit(ネット掲示板)を見るのも「にげる」です。ペーパーベルトからどれくらい距離を置くかはあなたの自由なのです。

ペーパーベルトは我々の行く手を拒むかもしれません。しかし技術、とりわけモバイルの力があれば、彼らを振り切ってソフトウェアが支配する世界を作れるでしょう。

いくつか例を挙げてみます。

まず、3Dプリンタがあれば、物理的なものに規制をかけることができなくなります。医療機器から無人小型飛行機から車まで、何でも複製できるようになれば、モノに対して規制を作るためにできた省庁の存在意義が問われるでしょう。3Dプリンタ用のデータを、DRM(デジタル著作権)の観点からどう管理するかだけが課題になります。

Bitcoin(現金にも変換できるP2Pの仮想通貨)があれば、量的緩和は通信制限に代替されますので、中央銀行はいりません。キプロスやポーランドであったように、財産を差し押さえられることもありません。

Quantified Self(自己定量化、自身の遺伝子解析)が進めば、スマホで自分の健康診断ができるようになります。

ネット経由で出入国すれば、移民法はファイアーウォールに置き換わります。

ロボットが発達し、自由自在に遠隔で操作できるようになれば、遠く離れた場所にいるヒューマノイドが「自分」になるのです。旅行をするのに飛行機代を払う必要もありません。

戦争においてはハードウェアより、ソフトウェアのほうが強くなります。法律はコードに置き換えられ、行政はロボットが取り仕切ります。

詳しいことはわたしの次のMOOC(オンライン授業)で話すことにしましょう。

わたしがみなさんに言いたかったのは、目線を高くし、どんな小さいものでもいいので、次の社会が必要とする技術を作ってほしい、ということです。

中産階級の人々に税金の抜け道を教えるソフトウェアでもいいし、人々が別の都市に引っ越しやすくなるようなアプリでもいい。囲い込みを破壊し、「にげる」ための障壁を下げる何かを、ここにいるみなさんには作ってほしい。





 
いかがだろうか。感心する部分や、突っ込みどころも多々あることだろう。以下、わたしの感想を述べさせてもらう。

わたしはシリコンバレーに住んで4年目だが、その前はラスト(製造業の)ベルトのピッツバーグに4年間住んでいた。ピッツバーグは鉄鋼業と共に繁栄し、70年代ごろから鉄鋼業と共に衰退した街だ。ピッツバーグの一軒家の値段を見てみると、執筆時点で中央値は1200万円にも満たない。シリコンバレーの家の値段は中央値で約7300万円。およそ6倍もの開きがある。

ピッツバーグに住む前はペーパーベルトのワシントンDCに6年間住んでいた。周りにいる人は政府関係者ばかりで、技術を毛嫌いするスーツ人間の巣窟だった。ワシントンDCが衰退する日もそう遠くないだろう。

こうしてシリコンバレー、ラストベルト、ペーパーベルトそれぞれに長期滞在した身としては、Srinivasan氏の見解も大いに頷ける。

ところで、自分が一番興味を持ったのは、講演で少しだけ触れられていた「たたかう」と「にげる」についてだった。というわけで、この記事の残り半分では、「たたかう」と「にげる」についてわたしが考えたことを3点ほど紹介したい。

「にげる」を助けるアプリやサービスはレッドオーシャンである
「にげる」ではなく「たたかう」でなければいけないケースもある
「たたかう」を助けるアプリやサービスはブルーオーシャンである

 
1.「にげる」を助けるアプリやサービスはレッドオーシャンである

最近生まれたアプリやサービスを「たたかう」と「にげる」に分類した場合、どちらでもないものを除けば、多くは後者に属するのではないだろうか。

たとえばLinkedInやWantedlyなどのSNS系転職サービスは、会社から会社員が「にげる」ために作られた。SkypeやHipchatなどのコミュニケーションツールも、リモートで働く障壁を下げるという意味では「にげる」だ。

「ハードウェアを捨てる」という観点でみれば、有名どころならレジから人を解放するSquare、ベンチャーならFax機を使わずにFaxを送れるようになるHelloFaxも「にげる」である。iTunesや電子書籍だって、レコード会社や出版社の囲い込みから個人が「にげる」ための手段だ。

AirBnBやExpediaなどの旅行系アプリやサービスも、現実逃避という意味での「にげる」を助ける。山のようにある語学学習サービスも、自国から「にげる」ことを目論む人たちの味方だ。

そして、「にげる」障壁を下げるものを作れというSrinivasan氏のアドバイスには、良い点も悪い点もあると思う。

良い点としては、「自分の作品は、人が何から『にげる』のを助けるのか?」と自問することは、若い起業家が事業の軌道修正をするのに役立つということだ。誰も必要としないアプリやサービスには「にげる」要素が欠けていることが多い。

だが裏を返せば、「にげる」を助けるアプリやサービスは競争が激しいレッドオーシャンだ。会社勤めからフリーランスに「にげる」人向けの経理アプリなどは、とくに英語圏では山のようにある。

「にげる」を助けるアプリやサービスはこれからも増え続けるが、依然として起業家には厳しい戦いになるだろう。


2.「にげる」ではなく「たたかう」でなければいけないケースもある

「にげる」を助けるツールは多いが、そもそも「にげる」が望ましくないときも多い。なので次は、「にげる」ではなく「たたかう」ことをやむを得ないケースを紹介する。

まずはじめにSrinivasan氏が講演で引用した本の内容を吟味し、「たたかう」の大切さを手短に説明する。それに続き、「たたかう」が「にげる」に勝る事例のひとつとして、わたしが専門とする教育分野について持論を展開させてもらう。

さて、Srinivasan氏が使った「たたかう」と「にげる」の元ネタは政治経済学者のハーシュマンが1970年に出版した離脱・発言・忠誠という本である。

皮肉なことに、Srinivasan氏は「にげる」の重要性を説いたが、ハーシュマンの主張は「『にげる』ではなく『たたかう』でなければいけない分野もある」というものである。それは当時人気を博していたフリードマンの「資本主義と自由」をはじめとする新自由主義への警鐘だった。

「衰退している市場から人が『にげる』ことで、『見えざる手』という適者生存の法則により、世の中全体は勝手に良い方向に向かう」という経済学的発想に「ちょっと待った」と言ったのがハーシュマンなのだ。

ハーシュマンは「にげる」が上手くいかなくなる事例を二つ挙げている。ひとつは、ナイジェリアの鉄道の例である(p.44)。ナイジェリアでは、主な運輸の手段が鉄道からトラックに取って代わられたにもかかわらず、鉄道サービスの質は良くならなかった。「にげる」が状況を改善しなかったのである。

理由は察しの通り、鉄道は政府が運営していたため「利益が減っても無くなることはないだろう」と思われ、誰も状況の改善に乗り出さなかったからだ。

もうひとつの事例は私立学校と公立学校についてである(p.16)。たとえば公立校の質が低下し、教育熱心な親はみな私立校に子供を送るようになったとする。すると、残された教育熱心でない親とその子は質の低下に気づかないため、公立校の改善が遅れてしまう。結果として私立と公立の格差が残る。

逆に、私立校というオプションが無かった場合、教育熱心な親は「にげる」より「たたかう」を選ぶしかないが、親が公立校と協力して教育の質が上がれば、すべての子が恩恵を受ける。

この例を用いたハーシュマンは、教育バウチャー論(公的資金による私学進学支援)を発表したフリードマンに真っ向から戦いを挑んだのだ。そして60年近くが経った今でも、「教育でも『にげる』が勝ちなのか?」という問いに答えは出ていない。

たとえば、アメリカのK12という上場企業はオンライン上で完結してしまう小学校・中学校・高校を提供していて、アメリカ50州のうち33州で学校法人として認可されている。レールから外れてしまった子が従来の教育から「にげる」ために作られたのだが、実際のところ、営利目的の運営体質が批判を呼んでいるようだ。

小耳に挟んだ話によると、K12が運営するオンライン小学校・中学校・高校に通う生徒の成績は芳しくなく、5割以上の生徒がドロップアウトするらしい。「できない子の親に『あなたのお子さんでも、ネットだけで高校まで卒業できますよ』と営業をかけ、金だけ取って、まともな教育を施さないまま見捨てるといった手口は、まるでサブプライムローン問題を見ているようだ」と投資家に揶揄されている。

わたしが働くEdSurge社は教育のジャーナリズムの会社なのだが、弊社は「教育では『たたかう』も大事だ」というスタンスをとっている。先日も、われわれはシリコンバレーのコンピューター博物館を貸し切り、教育xITを軸とするベンチャー30社と、600人もの学校の先生向けのイベントを主催した。

弊社がこのようなイベントを主催した背景には「アメリカで教育改革が進む中、先生は『たたかう』ための武器を手に入れるべきで、その武器とはITである」という考えがある。

アメリカの「にげる」教育論者のなかには、「iPadがあれば先生はいらなくなる」と公言する人もいる。しかし、教育に限っては、わたしは最終的には「たたかう」が「にげる」を制すると思う。iPadをはじめとするITは、生徒が先生から「にげる」ための道具ではなく、先生が「たたかう」ための道具なのだ。

ITを使ったアメリカの教育革命については、エンジニアTypeで記事を書かせてもらったので、興味がある方はこちらからご覧いただきたい。

教育についてつらつらと書いたが、「にげる」ではなく「たたかう」でなければいけない業界は、他にも挙げればキリがないだろう。

こういう話をすると、われわれは「なんだ、資本主義や自由競争の限界の話か」と片付けてしまいがちだ。しかし、斜めに構えていては行動に移すことができない。

そうではなく、「われわれは『にげる』道具を作るべきなのか、それとも『たたかう』道具を作るべきなのか?」と問うことが大切なのだ。そして、「にげる」道具にしろ「たたかう」道具にしろ、選んだほうを作り遂げることが求められているのである。


3. 「たたかう」を助けるアプリやサービスはブルーオーシャンである

「たたかう」を助けるアプリやサービスはブルーオーシャンである。このことも、「にげる」でなく「たたかう」道具を作るべき理由のひとつだ。

たとえば、転職をすることが「にげる」なら「たたかう」は出世をすることだ。しかし、転職を助けるサービスは多いものの、出世を助けるサービスはあまり聞かない。

わたしが疎いだけで、上司との友好関係をメンテするためのCRMサービスは存在するのだろうか。「次は15日後にこの上司とご飯に行くべき」などとプッシュ通知してくれるアプリはすでに売りさばかれていて、政治家リーマンの御用達になっているのだろうか。今年のドリームフォースでは、セールスフォースの「社内政治版」がOne More Thingとして登場してしまうのだろうか。

冗談はさておき、「たたかう」道具の市場は「にげる」道具の市場より大きいのかもしれない。なぜなら、世の中の大多数の人は「にげる」勇気を持ちあわせていないからだ。

今の日本の雇用問題に焦点を当ててみても、追い出し部屋なんてものが存在すること自体が「にげる」のが難しい証拠だ。会社から「にげる」のが容易いことなら、ブラック企業と呼ばれる会社は一瞬で潰れてしまうだろう。

むろん、誰かが「たたかう」ことを支援するのは大変だ。その人が「たたかう」戦場を理解する必要があるからだ。しかし、ブルーオーシャンであるがゆえに、成功すればリターンは大きい。

ユーザー数400万人を達成し、1億ドルの資金調達をしたGitHubについて考えてみよう。ご存知でない方のために付記しておくと、GitHubとはプログラマーが業務で使うコードをクラウド上で共有するためのサービスである。

GitHub社はGitHub Enterpriseと呼ばれるサービスを2年前から開始している。これはオンプレミスなGitHub、すなわち自社サーバーにGitHubを導入できる機能で、主にコードを社外に置けない大企業向けに提供されている。

これを見て「エンタープライズは儲かる」と言ってしまえばそれまでだが、わたしにはGitHubが「たたかう」を支援しているように見えるのだ。

前提として、イマドキのIT企業はコードをクラウド上のGitHubで管理することに抵抗はない。そして、イマドキのIT企業に勤めるエンジニアの多くは「クラウドって何ぞや」とぬかす古い企業から「にげる」を選んだエンジニアだ。よって、2年前までのGitHubは「にげる」を選んだエンジニアを主に助けていたと言える。

しかしGitHub Enterpriseのおかげで、「大企業を辞める勇気はない」「機密を扱う企業でやりたいことがある」と考える、すなわち「たたかう」を選んだエンジニアも仕事でGitHubを使えるようになったのだ。

「仕事で使わないから、GitHubには興味が無かった」というエンジニアも、仕事で使うようになれば、プライベートでも有料ユーザーになるかもしれない。GitHubが「たたかう」を支援するメリットは大きい。

市場の主立ったプレーヤーが「にげる」に気をとられていて、「たたかう」がガラ空きな分野は多い気がする。たとえば、最近流行りのプログラミング学習サービスについて考えてみよう。

ほとんどのプログラミング学習サービスの謳い文句は「アプリを作れるようになろう」である。わたしに言わせれば、これは「アプリを作れるようになれば、IT企業に転職するとか、エンジニアになるという選択肢が生まれるよ」「アプリ制作を副業にすればお小遣いが入ってくるよ」「そうすれば、あなたは少し自由になるよ」とほのめかしているだけに過ぎない。

すなわち、「にげる」ためにプログラミングを学ぼう、というわけである。それ自体は悪いことではない。実際にわたしは今年の春、自分の彼女にコーディングを三ヶ月付き添いで教えていた。結果、彼女は営業職からデザイナー職へと転職することができた。彼女は「にげる」ことに成功したわけだ。

だが、世の中では彼女みたいな人間は少数派だ。多くの社会人は、もしプログラミングを学ぶ機会を得られるのであれば、アプリ開発者になろうとするよりは、そのスキルを自分が会社で「たたかう」のに役立てようとするはずだ。

業務のボトルネックを解消するアプリを作れば、同僚からも上司からも喜ばれるだろう。会社内だけで通用するネタを盛り込んだジョークアプリを作れば、宴会で一目置かれるだろう。

作ったものを公開するかしないかは関係ない。公開されているケースだと、知り合いに@Guttyoさんという方がいる。彼は大きな病院で薬剤管理指導をしながら、薬剤師向けに「調剤電卓」などのiOSアプリを公開している。@Guttyoさんも、薬剤師の世界で「たたかう」ためにプログラミングをしているのかもしれない。

プログラミング学習サービスが、利用者すべてに「アプリ作者になろう」と宣伝するのは賢明なのだろうか。まず「あなたが『たたかう』戦場はどこですか?」と訪ねるべきではないか。その上で「個人投資家の方なのですね。ではRubyのスクリプティングが役に立ちそうです」などと提案し、その人が仕事で「たたかう」ためにプログラミングを教えたほうが効果的だとわたしは思う。

以上を一言にまとめると、「にげる」よりも「たたかう」を助けたほうが大勢の人の心をつかむことができるのでは、ということだ。


結論と、わたしがなぜシリコンバレーにいるか
 
ITベンチャーの戦略論は、「我が社は消費者向けでいくのか、企業向けでいくのか」といった文脈や、「我が社はアーリーアダプターから狙うのか、それとも一般層から狙うのか」などといった文脈で語られることが多い。

だが少し視点を変えてみて、「我が社は『にげる』を助けるのか、『たたかう』を助けるのか」という角度から経営判断をすると、また違った答えに辿り着くのでは、というのが、今回の講演を聞いて感じたことだ。

だらだらと長くなってしまったが、最後に言っておきたいことがある。わたしがいま日本でなくシリコンバレーにいる理由は、講演を紹介したSrinivasan氏のような起業家が身近にいるからだ。

起業家というより、彼のような人は思想家と言ったほうが近いかもしれない。

人類はたまに大きく前進するときがあって、多くの場合、それは時代の思想家が世界の一部分に集まって起こる。ぱっと思いつくものであれば、古代ギリシャ哲学の発展、ルネサンス、黒人の公民権運動などだ。

そしてわたしたちの時代の思想家は、シリコンバレーに集結している気がする。

同じイベントの後半では、Facebook社のZuckerberg氏が「人類すべてをネットで繋げよう」という自身のInternet.orgプロジェクトについて語っていた。もはや彼も起業家の域を通り越している。

さらに、このイベントには数百人の若者が参加していたのだが、自分より年下の人も多く、まさに思想家の卵たちが会場を埋め尽くしていた。Yコンビネーターに合格する人の平均年齢は27歳。このイベントに参加する人たちはYコンビネーターをまだ受けていない人たちが多数派なので、わたしと同じ25歳くらいの人が多かったのだろう。

誤解を招かないように断っておくが、日本がダメだと言いたいのではない。むしろ、日本の起業文化は優れている。起業家の方々はみな優秀だし、コミュニティーの結束も強い。Srinivasan氏の講演であったような、「オプトアウトを許可する特区をつくろう」という声も日本であがっている。

ただ、シリコンバレーと違うなと思うのは、日本で活躍されている人に話を聞くと、かなりの確率で「日本から世界へ」「世界を日本へ」といった類の言葉が出てくることだ。

Srinivasan氏の話もアメリカについての話だったが、「アメリカから世界へ」というよりは、「アメリカから、まだ見たことのない世界へ」という意味のほうが近い。

そしてわたしは、「世界」よりも「まだ見たことのない世界」のために働きたい。

「世界を日本へ」呼ぶことができれば、「まだ見たことのない日本」が作れるかもしれない。しかし、人生の半分をアメリカで過ごしたわたしは、普通の日本人の半分ほどしか、「まだ見たことのない日本」に興味を持つことができない。

偉そうなことを言うつもりはないが、20代という人生最後の多感な時期は、その時代を作る思想家に囲まれて過ごしたい。

いつの日か自分の子供に、「君がまだ生まれてなかった頃、君の世界史の教科書に載っている人たちのそばで、わたしは働いていたんだよ」と言えるようになりたい。

その日のために、まだアメリカから抜け出せないシリコンバレーで、わたしは今日も働いている。