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すてきな笑顔を咲かせるプラットフォーム記事




人の営みに密着したテーマを、すてきな仲間とひも解き、組み立て、輪を広げ、シニアが培ってきた価値観、知見・ノウハウを貴重な資産として活かしきる、その過程を、一緒に楽しめたら嬉しい。
そのために、人とひとが集いつながり、一人ひとりが輝き、活きる場づくりに取り組み、世の中を、もっと元気に、もっと幸せに、もっとすてきな笑顔を咲かせ、溢れさせたいと想う。
私たちは人脈やスキルなど様々な資源を持っていて、それらを組み合わせれば、いろんな企てができる。
 
結果的に成功するかもしれないし、失敗するかもしれない。巨大なビジネスになるかもしれないし、細く長く続く家業になるかもしれない。
誰にでもやってみることはできる、『してもいい自由』がある。
何をするかよりも、誰とするかが大切なこと。
失敗したとしても、それは決してムダではない。
 
失敗だって、時間が経てば良い思い出や良い経験になるし、良い経験こそ良い人生、“Good Experience, Good Life”という気持ちでやっていけば、怖いものなし。
そして、人生の先輩が輝けば、これからを担う若者の目が、気持ちが、輝き始める。

 
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◇自分と社会をゆるく小さく結ぶ「ソーシャル起業」

人生前半の仕事が10万時間、後半の自由な時間が10万時間。高齢化により、どっと多くの日本人が人生後半に突入している。
古代インドの人生訓として「四住期」という教えがある。人生を4つの期間に分けて、それぞれの期間における理想的な過ごし方を説くものだ。
 (1)学生期:良き師を得て勉学に勤しむ時期
 (2)家住期:家庭にあって子をもうけ、一家を営む時期
 (3)林住期:森林に隠棲して静かに瞑想・修行する時期
 (4)遊行期:一定の居宅をあえて持たず、諸国を放浪・遊行する時期
今と比べれば平均寿命が著しく短かった古代インドにあって、子どもを一人前に育てた後、林住期や遊行期まで命が持ちこたえることは稀だった。だから、多くの古代インド人にとっては、四住期は厳しい現実とかけ離れた夢、理想だった。
 
さて、古代インドから時空を飛び越えた現代日本。平均寿命は著しく延びた。欧州では1910年に、そして日本では1947年に平均寿命が50歳を超えた。そして、周知の通り日本人の平均寿命は、2012年時点で男性79.9歳、女性86.4歳にまで延びている。
平均寿命を単純に比較すれば、平均的な日本人にとって、古代インド人から見れば夢のまた夢だった学生期、家住期、林住期、遊行期のすべての時期を過ごすことが可能となっているのである。
 四住期を現代日本にあてはめて年齢的に区分してみると、おおむね次のようになるだろう。
 (1)学生期:25歳くらいまで
 (2)家住期:50歳くらいまで(65歳が定年)
 (3)林住期:75歳くらいまで
 (4)遊行期:それ以降
 
さて、1日の労働や通勤に費やす労働関連時間として9 時間、そして睡眠、食事、お風呂に入るなどの生活時間を9 時間と仮定してみよう。ここで、引き上げられつつある退職年齢の65歳で線を引いてみる。
家住期の就業中の「労働関連時間」=9時間×250日(年間労働日数)×43年(22歳で大学を卒業してから65歳で退職するまでの43年)=9万6750時間。
定年後の林住期、遊行期の「自由な時間」=15時間(生活時間を9時間とし、1日15時間を自由に活動できるとする)×365日×15~21年(65歳から男性80歳・女性86歳までの15~21年間)=8万2100~11万5000時間。
すると、どちらも10万時間前後となる。現在働いている読者の皆さんは、今までに長いこと働いてきた方が多いと思われる。その労働時間に匹敵するか、それ以上に長い自由時間が定年後にあるという現実を予見して、何を思うだろうか。
今後日本の総人口は減りながらも65歳以上の高齢者は増えてゆく。
すなわち、高齢化率は上昇を続け、2013年にはすでに4人に1人が、そして2035年には3人に1人が65歳以上となる。さらに2060年には2.5人に1人が65歳以上となってゆく。
 
さて人生前半の10万時間はとかく忙しい。
人は、人生前半の10万時間で、どっぷりと近代資本主義と市場に参加する。差別化の効いた能力や資格をテコにしつつ毎日午前9時から午後5時の貴重な時間をブチ抜きで働く。ローンを組んで家を買い、税金を払い、寸暇を惜しんで遊び、飲み、食べ、消費財、耐久消費財の購入に所得を割り振る。
産業社会の生産活動やイノベーション活動に貢献し、所得を得て家計を豊かにし、イノベーションの成果を生活に導入する。
ここで注意したいのは、「近代資本主義や市場競争は、人生前半の10万時間に焦点を置いている」という点だ。
近代資本主義や市場競争は、それに耐えうる人には「豊かさ」を、それに耐えられない人には冷酷な「排除」をもたらしている。
例えば子供の貧困問題。
毎年10万人近くの高校生が中退し、若年出産などを経て貧困のスパイラルに落ちてゆくという社会的な排除がある。
貧困家庭に育つ→高等教育を受ける機会が激減→不安定雇用にしか就けない→貧困層から抜けることができない、というように社会的な排除がスパイラル化している。  由々しき問題だ。
  
人生後半の10万時間に焦点を置く原理や道標になるような「~主義」があるのだろうか。
答えは「暗中模索かつ実験途上」となろう。人生後半の10万時間については、前述したように、人類史的にほとんど未踏の領域なのだ。
ただし、確実なことが1つだけある。人生前半の10万時間をターゲットにしてきた近代資本主義や市場競争の行動様式では、まったく立ち行かなくなるということだ。
要は定年後の10万時間の使い方そのものが、人類史的に未開拓なテーマであり、実は日本は、その実験の最先端にいる。定年後の10万時間は、光り輝く黄金にもなれば、鉛にもなるのである。
近代資本主義や市場競争は、金銭欲、物欲、消費欲、食欲、性欲などの欲望を刺激してやまない。
仏教のほうでは、これらの欲求の充足を求めてやまない自我を「小我」と呼ぶが、人生前半の10万時間では「小我」がどうしても勝ってしまう。
 
人生後半の10万時間では、「小我」を超え、自他の区別を超えてゆく「大我」に移行してゆく格好の時期でもあろう。
人生後半の10万時間では、多くの人にとってソーシャルな価値は3つに集約できるだろう。
 (1)健康を維持・増進するケア
 (2)自分の利益だけでなく他者のことを気にかけるケア
 (3)自分が関わるコミュニティーへのケアである。
健康を得てはじめて人生後半の10万時間は生き生きとしてくる。
つまり慢性疾患に足を絡めとられないように、健康を増進し疾病予防に努めることが肝要だ。
人生前半の10万時間では、厳しい競争にさらされてサバイブするのか、いかに自分が得る利益を最大化するのかに関心が向かってしまう。
でも後半の10万時間は、むしろ、排除されている人々や利他を気にかけ、労働市場、製品市場、資本市場などお金との交換にとらわれない「場」としてのコミュニティーにおける活動が大切になってくる。
人生後半の10万時間に対応し、構想するのは、65歳を迎えたその時では遅すぎる。人生前半の10万時間のうちから長期的に準備しておくべきだろう。
つまり、ケアシフトは、人生後半の10万時間のみならず、人生前半の10万時間にも影響を与えるのである。
そんな中で、65歳を迎えるまでに、定年後の10万時間を光り輝くゴールデン・エイジにするために、自分と社会をゆるく小さく結ぶソーシャル起業を勧める。
いずれ手中にする10万時間の自由な時間の一部をソーシャルな仕事でクリエイティブに使うというシナリオだ。
シニア層は、長年の勤労義務から解放されつつあり、自由の自由たるゆえんの自問自答に熱心であり、環境、教育、雇用、貧困、格差、健康、福祉、人権、エネルギーに関わる社会問題にも敏感だ。
そして、現代日本の「豊かな」人々には、古代インドより、はるかに学びの自由度がある。
そこで人生をリセットし、人生後半の10万時間で新たなチャレンジに取り組んだり、近代資本主義や市場競争主義が生んできた「排除」に対して、問題解決行動を起こしたりすることができるのである。
人は、意識を変性させマインドフルになって、新たな文脈つまり世界にコネクトすることにより、新しい物語を紡ぐようになる。
コネクトし、橋渡しする両極、つまり、世界と自分が再帰的に変容してゆくのである。この過程では、自己変容と世界変容が相互交流し、再帰的に動いてゆく。
 
もとより、人はすぐれて自己組織的で複雑適応的な生きものだ。
ちょっとしたシステム思考、デザイン思考、マネジメント思考の方法を体得すれば、だれもが新しい物語、つまり、自己と世界の変容の只中に自分を置くことができるようになる。
人は、世界をケアすることによって自分をケアする。
再帰的なケアの循環は、両者の関係性をより身近なものとする。この関係性をつくっていくことがソーシャル起業の本質である。
ソーシャルな起業力、つまり、より自由に生きて自分のソリューションをグローバルそしてローカルなコミュニティーで生かし、近代資本主義や市場競争が産み落としてしまった「排除」や社会問題を、自分のこととしてケアし、熱く解決してゆく人材こそが、今求められているのである。
それが、近代資本主義や市場競争の自浄作用なのか、はたまた近代資本主義や市場競争に置き換わる新しいポスト資本主義なのかについては、いまだ明確な輪郭はない。
しかしながら、だれもがケアシフトの影響を受けるし、またケアシフトの当事者となり得る。