浮ついた「万能感」から、地に足のついた「有能感」へ

 僕たちは誰もが、幼児時代には万能感を持っています。
しかし、成長する過程で、いくつもの失敗や挫折を経験し、
「人生は自分の思いどおりにはならない」ということに気づいてそれを受け容れ、万能感を手放していきます。
万能幻想から目覚めるのです。

これが「心理的に大人になる」ということなのですが、しかし、大人になっても万能感を手放せないでいると、
あるいは、大きな力を手に入れて、再び万能感に支配されてしまうと、僕たちは、大人としての現実的・客観的・理性的な判断能力を持てなくなってしまうのです。

「自分の野望や権力欲などが達成され、自信に満ちて何でも可能なような気持ちになったときが、実はその人にとって人生最大のクライシス(危機)です。

なぜなら、万能感の肥大化は一種の退行現象だからです」
僕たちにとって大切なことは、万能感を手放しながら、現実検討能力や現実適応力を高めていくことです。
そして、その過程においては、「諦(あきら)める力」も必要になってきます。
もちろんここで言う「諦める」というのは、何かにトライする前から、
「どうせ自分には無理だ」と自らの力を過小評価して、さじを投げてしまうことではありません。
「諦(あきら)める」という言葉の本来の意味は、「明らかに見る」、「明らかに見極める」という意味です。
「等身大の自分の姿をはっきりと直視する」ということですね。

つまり、本来の「諦める」というのは、何かにトライして、望むような結果が得られなかったときに、
あるいは、そのような失敗や挫折の体験を何度かくり返したときに、
現時点での自分の能力や器の限界を「現実的に」「明らかに」見極めることです。

そして、自分の能力が及ばない範囲のことに対しては、そのことをちゃんと認めて、
潔く白旗をあげるのです。
もちろん、そのときは落ち込んだり、残念な気持ちを味わったりしますが、
それはとても自然なことです。
それらの気持ちを受け容れて、感じ、ごまかさずに味わいながら、自らの限界を認めること。
それが「諦める」ということです。

「諦める」というテーマで参考になる本に、陸上競技の選手だった為末(ためすえ)大さんの著書『諦める力』があります。
「走る哲学者」と言われるだけあって、深い思索にもとづいて論を展開されています。
以下、引用します。
「『やればできる』『夢はかなう』『きみには才能がある』これまで多くの人が誰かに言われてきた言葉だろう。
だが、ほとんどの人はこの言葉を信じて努力してきたにもかかわらず、成功を手にできなかったはずだ。
言葉が重荷となり、プレッシャーに負けてしまったり、やめる時期を逸してしまった人も少なくないだろう。

日本人は、この『やればできる』という言葉を好む。
しかし、言葉の意味を考えると、おかしなことに気づく。 
少しひねくれた意地悪な物言いかもしれないが、あえて言う。
『それじゃあ、できていない人はみんな、やっていないということなんですね?』」
「アスリートは二十代中盤くらいで、ある程度勝負が決まってしまう。
その年齢から急激に成績が伸びて勝てるようになったり、ましてや世界記録を狙うレベルに飛躍的に成長する可能性はほとんどない。
そのあたりから、努力しても夢がかなわない自分との戦いになる。
どのようにして自分を納得させるか。
もしくはいつ撤退するか。
こうしたことに神経を集中させていかねばならない。
 
『やればできる』『諦めなければ夢はかなう』というロジックだけでは、人生は辛いものになっていく」、「もう少し、もう少し、とやめる時期を延ばした結果、就職するタイミングを逃してしまって、生活が立ちゆかなくなったアスリート。
成功する見込みのない競技を諦めきれずに続けた結果、結婚を約束した相手に逃げられてしまったアスリート。

気持ちを切り替えられなかったため、人生に弊害が出てしまったアスリートは、かなりの数に上る」以上、
なかなか万能感を手放せないアスリートの心理にメスを入れつつ、万人にとって「諦める力」が大切であることを説いた本です。
 
また、この本の中で為末氏は次のように述べています。

「できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる」人生を思いどおりに操作することはできない。
万能の人間として生きることはできない。
他者をコントロールすることはできない。

こうして「できないこと」の数が増えると、僕たちの意識は「できること」にフォーカスされ、「できること」がどこまでも深くなります。
僕たちは、自分の影響力の“及ばない”範囲のことを諦めることによって、自分の影響力の“及ぶ”範囲のことに意識をフォーカスできるようになり、
その範囲の中で、自分の力を自由に、存分に、最大限に発揮することができるようになるのです。

これが「現実適応力」です。

そして、このとき培われるのが「有能感」です。
「有能感」とは、「自分の能力に対する、実感にもとづく自信」のことです。
等身大の自分の「能力」や「持ち味」や「強み」を見出し、そこに確かな自信を持つということです。

たとえば、「努力することで、できなかったことをできるようになった」だとか、
そのような達成体験や成功体験の積み重ねによって、あるいは、自分自身の成長によって、
着実に培われるのが有能感なのです。

僕たちは、目の前の現実的な課題にコツコツと取り組むことによって、達成体験や成功体験を積み重ね、
その結果、等身大の自分に根ざした「有能感」を培うことができます。
「万能感」は、現実の自分ではなく、幻想としての自分にしがみつくものだけに、
非常に不安定で、脆(もろ)いのですが、「有能感」は、現実の等身大の自分に根ざしているだけに、安定していて、盤石(ばんじゃく)です。

浮ついた「万能感」から、地に足のついた「有能感」へ。

これこそが、精神的な成長・成熟のプロセスです。
 

最後に、松下幸之助さんの言葉を紹介したいと思います。
 
「自分の意志で歩んでゆくことは、それはそれで必要だけれども、同時にそれと同じように、あるいはそれ以上に、一つの諦観(ていかん)というか、いい意味でのあきらめをもって与えられた環境に没入してゆくことが大切だと思う。そのような覚悟が必要だということである」

「人間は一面では自分の意志によって道を求めることもできるけれど、反面、自分の意志以外の大きな力の作用によって動かされているということを考えることも大切なのではないだろうか」

(『その心意気やよし』松下幸之助著より)



        「自分という大地に根を張る生き方
               ~自分本来の力を発揮する生き方~」
 
         




<依存の心理と高揚感とマイケル・ジャクソン>
 

先月あたりに何度かフェイスブックでも
記事にしてきたことですが、

人は皆、幼児時代には、
「自分が願ったことは何でもかなう」という
万能幻想(万能感)を持っています。

そして、大人になる過程で、
さまざまな失敗や挫折を繰り返し、

その結果、万能幻想から目覚めて、
現実が思いどおりにならないものであることを
受け容れるようになります。

また、その過程を通して僕たちは、
「思いどおりにならないことへの耐性」を
獲得するのです。
 

この万能感を手放していくプロセスは、
心理的に大人になる上で非常に大切なのですが、

そのプロセスを通過するために、僕たちは、

自分の弱さや限界にちゃんと直面し、
等身大の自分(欠点も限界もある不完全な自分)を
受け容れていく必要があります。

しかしこれは、
決して楽なプロセスではありません。
 

これについて考えるうえで、
マイケル・ジャクソンの話をしたいと思います。

マイケルは8歳のときに兄弟たちとグループを結成し、
11歳のときには「I want you back」という曲で、
全米シングルチャート1位を獲得しました。

そしてその後、ソロデビューを果たしてからは、
音楽界の記録と次々と塗り替えるような大活躍をし、
その結果、十数個のギネス記録を持っています。

たとえば、
以下の項目でギネス記録を持っています。

・人類史上最も成功したエンターテイナー
・全米アルバムチャートでの最長期間1位
・史上最も売れたアルバム
・史上最高額の所得を得たアーティスト
・CM出演料の史上最高額
・最も成功したコンサート
・個人アーティストとしてグラミー賞を年間最多受賞

(他にもいくつかギネス記録はあって、
合計で十数個になります)
 

こうした活躍を経てマイケルは、
「ポップ界の王(King of Pop)」と呼ばれるようになった
わけですが、

このような結果を出してしまったら、

「自分は万能だ。なんでも実現できる。
人生を思いどおりにコントロールできる。
自分は特別にすごい人間なのだから」

という万能感を持ち、
さらにその万能感が肥大化していっても、
おかしくないですよね。
 

僕はマイケルの弁護をしておきたいわけですが、

彼のような結果を出してしまったら、
マイケルに限らずとも
万能感に支配されてしまうだろうし、
その万能感は肥大化してしまうだろうし、

万能の自分(=誇大自己イメージ)を手放すなんて
なかなかできなくなるだろうと思うのです。
 

と、マイケルの弁護をしたところで、
もう少し彼のことをお話ししたいと思います。

ご存知のとおり、ある時期からマイケルの容貌は
著しく変わっていきましたね。

彼は、美容整形への依存症に陥ったのです。

アメリカの著名な美容整形外科医パメラ・リプキンは、
ABCニュースに出演して、
「マイケルの鼻は最終段階に至っています。
何度も整形をし、さんざんいじられた結果、
鼻で息をするのが難しい状態になっています」
と述べています。

そして、この時期にマイケルは、
薬物にも依存するようになりました。

「万能の自分こそが本当の自分である」という
自己イメージを手放せなかったマイケルは、

加齢とともに容姿が変わるという現実を受け入れられず、
美容整形によって
「トップスターにふさわしい容姿の自分」を維持しようとし、

また、
全盛期ほどの大ヒットを飛ばせなくなった現実に直面する
のを避けるべく、
薬物に依存するようになったと思われます。
 

そして、マイケルは50歳で亡くなったのですが、
それも薬物がらみでした。

マイケルの専属医だったコンラッド・マーレーは、
鎮静剤を飲んでも眠りに就けなかったマイケルからの
要求によって、
副作用の強い麻酔薬を投与しました。

その結果、マイケルは死亡してしまったのです。
 

ところで、マイケルの一人目の結婚相手は、
エルビス・プレスリーの娘のリサ・マリー・プレスリー
でしたが、

マイケルは雑誌のインタビューで、
「エルビスだって鼻の整形をしたんだ。
リサ・マリー・プレスリーが教えてくれたんだ」
と語っています。

ちなみに、エルビス・プレスリーといえば、
言わずと知れた「キング・オブ・ロックンロール」
ですね。

ギネスでは、
「史上最も成功したエンターテイナー」としては
マイケル・ジャクソンが認定されていますが、

「史上最も成功したソロ・アーティスト」としては
エルビス・プレスリーが認定されています。

そして、この二人の共通点は、
鼻の整形をしたことだけではありません。

エルビスも薬物依存に陥っていて、
42歳で亡くなったときの死因は、
薬物の過剰摂取でした。
 

余談ですが、
「20世紀を代表するセックス・シンボル」と言われた
マリリン・モンローも薬物依存症でした。

36歳で亡くなったときの死因は、
睡眠薬の大量摂取でした。
(彼女の場合は恋愛依存症にも陥っていました)
 

人々から「賞賛」や「特別扱い」や「尊敬」をされる
機会が多い人は、

「自分は特別にすごい人間なのだ」
という万能感(誇大自己イメージ)に支配される
ようになりがちです。

特に、
成功した芸能人やミュージシャンやスポーツ選手は、
人々から「あこがれの目」で見られる立場であり、
自分の言動が多くのファンの心を動かしたり、
多くのファンに影響を与えたりするので、
どうしても万能感が肥大化してしまいがちです。

(もちろん、すべての芸能人やスポーツ選手が
そうなってしまうということではありません。
スターになっても謙虚さを失わず、万能感にまったく
支配されない芸能人やスポーツ選手もいます)
 

日本でも
大麻取締役法違反や覚醒剤取締法違反で
逮捕される芸能人やスポーツ選手が
後を絶ちませんね。

昨年は、
元体操選手の岡崎聡子さんや、
元Jリーガーの後藤純二さんが、

そして昨日はチャゲアスのASKAさんが、
覚醒剤の所持で逮捕されました。
 

芸能人やスポーツ選手に限りませんが、
万能感に支配されてしまった人は、

人気に影がさしてきたり、
絶頂期を過ぎてしまったりしても、
その現実を受け容れることができず、

薬物の力を借りて、
ハイテンション状態(高揚感)を維持し、
万能感を持ち続けようとしてしまいがちです。
(これを心理学では「躁(そう)的防衛」と言います)
 

ここで、マイケルの話に戻りますが、

ある時期からのマイケルには、
奇行やスキャンダルが絶えなくなりました。
大人としての自制心を保てなくなったのです。

また、元従業員から訴えられるなど、
訴訟も絶えませんでした。

マイケルは典型的なピーターパン症候群だった
と言われています。

ピーターパン症候群とは、
大人になることを拒否し、
「永遠の少年」の心理にとどまろうとする
心理状態のことです。

「自分は万能ではない」ということや
「人生は思いどおりになるものではない」ということを
認めようとせず、
自己愛的な万能感の中で生きようとする心理です。

ちなみに、
ピーターパンはネバーランドに住んでいて、
そこに住む子どもたちは年を取らないのですが、
マイケルは自らの自宅を
ネバーランドと呼んでいました。
 

もしもマイケルが、
万能感を手放すことができ、

「人生には思いどおりにならないことも多々ある」

「自分が特別にすごいというわけではない」

「アーティストとしてすごい結果(=doing)を出した
かもしれないが、
自分自身(=being)は普通の人間の一人なのだ」

「すごい結果を出し続けることは無理であり、また、
その必要もないのだ」

「自分だって悩むし、落ち込むし、悲しむ。
それでいいんだ」

といった、
成熟した自己イメージと諦念を持つことが
できていたら、

薬物依存になることもなく、
安らぎのある人生を送れたのかもしれません。
 

心理学者のウィニコットが、
「万能感を手放すこと」ことを
「脱錯覚」と呼んでいます。
 
実際、人間は万能ではありませんし、
また、人生を思いどおりにコントロールすることは
できませんから、

万能感(万能幻想)は、
一種の錯覚であるといえますね。

そして、心理的に大人になるということは、

「人生は思いどおりになる」
「自分は万能である。特別にすごい人間である」
といった錯覚から脱することなのです。
 

日本語には
「諦念(ていねん)」という言葉があります。

「ものごとの道理・真理を悟る心。
また、諦め(あきらめ)の気持ち」
という意味です。

つまり、
ものごとの道理・真理を悟っていく過程は、
「あきらめ」のプロセスでもあるのです。
 

「あきらめる」の本来の意味は、
「明らかに見る」ということ。

僕たちは、
ものごとを明らかに見極めたとき、

現実というものの有限性に気づき、
「目指すべきこと」と「手放すべきこと」の
区別ができるのです。
 

ここで少し、
依存症にも触れておきたいと思います。

マイケルやエルビスやマリリン・モンローの場合は、
薬物依存でしたが、

万能感やハイテンション(高揚感)を維持しようとする
心理から、

薬物の他に、次のようなものへの依存症になってしまう
場合があります。

・仕事への過度の没頭(=ワーカホリック)
・過度の飲酒
・ギャンブル
・浪費
・恋愛
・セックス
・自分が賞賛を浴びること

これらに依存し、
万能感や高揚感を維持することによって、

思いどおりにならない現実や自分の弱さに直面するのを
避けているわけです。
 

そして、そのような依存状態にならないためには、

思いどおりにならない現実や
自らの弱さ・不完全さを
十分に受け容れることができるだけの

心の器(精神的な基盤)を確立することが大切です。