「生涯現役こそ最高の年金」という社会教育家の田中真澄氏は、こう語る。

『人生は未完に終わるもよし、仕事の途中で天寿を全うする、これが最高の人生』

仕事を金儲けの手段と考えている人は、
手っ取り早くお金をためて早くリタイアしたい、と思うかもしれない。

しかし、
人に喜ばれお役にたつためにするものが仕事と考えている人は、
人生最後の瞬間まで仕事をやめることはない。

「知識は失敗より学ぶ。
事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」
という田中久重の言葉がある。

生涯現役の人生を歩みたい。


日本人で生涯現役をつらぬき、高齢になっても活躍していた代表例は、
幕末から明治にかけて「からくり儀右衛門」と呼ばれていた発明家、田中久重です。

彼は8歳で『からくり式硯箱(すずりばこ)』を製作、
14歳の時に久留米絣(くるめがすり)のための織機(しょっき)を発明しました。

その後、一晩中消えない灯りや消火用ポンプなど、数々の発明をしています。
京都に移住後、天文と和暦の勉強をし、52歳の時に、『万年自鳴鐘』を発明しました。

陰暦日付、月の満ち欠け、太陽と月の運行など7種類を表示する時計です。

さらに、53歳で蒸気船の模型を試作し、56歳で機関車の模型を製作。
57歳で日本初の電信機を製作、79歳で時報器を発明しました。

1865年、66歳のときに、佐賀藩の造船所で木造外輪式の蒸気船を完成させています。

また、
当時の日本人の平均寿命は40歳でしたが66歳の田中久重は、
勤皇の志士と一緒になって「京都を攻撃してはならない。幕府を倒せ」と叫んで、尊皇攘夷を唱えていたのです。

大いに青年の気概に燃えていたわけです。

そして、維新後の明治8年、東京の銀座に煉瓦造りの街並みができ上がると、
早速そこに入居し、日本最初の民間機械製作工場 田中製作所を開設し「万般(ばんぱん)の機械考案の依頼に応ず」と大書して自ら顧客と対応しました。

その時、すでに76歳になっていました。

そして、この田中製作所が発展して、現在の東芝となったのです。

彼の若さの秘訣は何であったのでしょうか。

第一に、旺盛な好奇心です。

そして第二に、実際に手と頭を使って、新製品の発明や開発に打ち込んでいたことです。

つまり、知識だけの好奇心ではなく、実際にモノ作りをして全身で新しいことに取り組んでいたのです。


米国のユダヤ人サムエル・ウルマンの
『どうすれば若いままでいられるのか』に次の一節があります。

人は、信念を持てば若く、疑いを持てば老いる。

自信を持てば若く、恐れを持てば老いる。

希望を持てば若く、失望を持てば老いる。


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