社会的起業を志す世代の不気味さとその限界

バブル期の若者に人気のあった職業は「たくさんお金の稼げる職業」や「異性にモテそうな職業」が中心でした。その後、一時的に起業家が人気になった時期もありましたが、不況下の日本では長く「公務員」や「大企業に勤めるサラリーマン」などの人気が高い安定志向の傾向がありました。最近はここに新たに「社会起業家」というのが加わったそうです。


これは若者の価値観の変化をそのまま反映しています。つまりバブル期の若者は自分自身の価値を計る尺度を「金と女(あるいは男)」の二つしか持っていませんでした。
起業家になりたいと思った若者は「自分の能力を発揮すること」を何よりも価値のあることと考えました。一方で安定志向に走る人は自分自身の価値を計っているような余裕はなくて、それよりも貧困に転落しないようにするだけで精一杯ということです。

そして「社会起業家」についてですが、これはつまりお金はそんなにたくさんいらないから、それよりも絶対的正義の側に立っていたいという気持ちを反映しているのだと思います。
自分の能力を発揮したいという気持ちもあるのでしょうが、それ以上に誰からも嫌われない場所に立っていたいという気持ちが強いように感じられます。私にはこれがとても深刻な状況のように思えます。


どんなにつらくても自分がやっていることが正しいことだと思えば耐えられるのは事実です。しかし、「だから社会的起業が一番いいんだ」ということになってしまうのは、やはり不気味なことです。

高度経済成長期の日本の若者は、会社の発展に尽くせば日本の経済も成長し自分の生活もよくなると思っていました。彼等は会社の業績拡大のために尽くすことに迷いを感じていませんでしたし、そこに異論を挟む必要がありませんでした。

一方で現代の若者にとっての理想は社会的起業です。つまり彼等や彼女等は、企業の営業利益というのには「他者を騙して儲けた金」や「他者を踏みつけて稼いだ金」が含まれているという認識を多かれ少なかれ持っているわけです。騙したり騙されたり、踏みつけたり踏みつけられたり、そういうおどろおどろしい世界から距離を置いて生きていきたいと思っているから社会的起業が最もよいと考えるわけです。

「お金」に対しても同様の認識で、他者を踏みつけて人より多くのお金を稼ぐよりは平均的な収入の方が他人から嫉妬されることも後ろ指をさされることもないと考えています。

つまり現代の日本の若者は群れからはぐれることを異常なまでに怖れているわけです。誰からも嫌われずにいることを最も大切なことと思っているのです。私にはこれが不気味で深刻なこととしか思えません。

若くて将来のある人達が人生の最優先事項は嫌われ者にならないことだと考えているというのはあまりにも幼すぎます。小学校や中学校のように閉鎖された空間で生きている子供達が嫌われ者になることを怖れる気持ちは分かります。しかし世界の広さを知った若者は、少々嫌われてでも自分のやるべきことを探して生きていくべきではないでしょうか。


もちろん社会を良くしたいと思う人がいるのは良いことです。しかしそういった目的で設立されたNPO法人の活動なんかを見ていると、本当にこんなことで世の中が良くなるのだろうか?と疑問になってしまうことがあります。

彼等の活動に懐疑的な気持ちになることが多い理由は、彼等のやろうとしていることが「人間の善意を集めて世の中を変える」というアプローチであることが多いからだと思います。


大災害が起こると、被災地には世界中から人々の善意が寄せられます。物であったりお金であったりボランティアであったり、たくさんの善意が復興の役に立つようにと無償で提供されます。しかし人間の善意には持久力がありません。

十年前に大災害にみまわれた地域の一部はまだ復興していません。しかし十年前の大災害のことを覚えている人は少数ですし、十年前に被災した地域で今もボランティア活動を行っている人は皆無に等しい状況です。


人の善意を前提に社会のシステムをデザインすることは現実的ではありません。それは一時的にしか機能しない性質のものであって、恒久的なシステムにはなりえません。
「人間の善意を集めて世の中を変える」タイプの社会的起業には限界があります。よく言われることですが、あなたが毎日パンを食べることができるのはパン屋の善意のおかげではありません、パン屋の欲の結果です。


社会をより良く変えるためには、人々の欲望や願望がおのずと社会を良くする仕組みを考えなくてはなりません。

それはつまり「儲かり続ける仕組みを考える」のと同じことです。人を騙して儲ける商売は一時的にしか儲かりません。お金を払った側の人達がこれにお金を払って良かった、得をした、また利用したい。と思えるような商品やサービスを提供した場合にのみ儲かり続けることができます。


NPO法人とかボランティア団体とか、そういった立場の人達がいくら善意を振りかざしても(もちろん何もしないよりはマシですが)世の中はたいして良くなりません。それよりも自らの願望や欲望に挑んで生きる人の方が、世の中をより良く変えられる可能性を持っているのだと思います。



 
日本の社会がゆっくりと息苦しくなっていくメカニズム

スポーツ選手や歌手が被災地を訪問します。被災した人達とひとしきり交流し終えると彼等や彼女等はテレビカメラに向かって判で押したように「逆にこっちが元気をもらった」と言います。それはおそらく被災地に入る前から言うと決めていたフレーズです。いったいなぜ彼等や彼女等はそうやって同じことを言わなくてはならないのでしょう?そこにはもちろん理由があります。

 

インターネットやSNSの普及に伴って「安全な場所から誰かを糾弾して喜びたい人達」の存在感が増しています。安全な場所から誰かを糾弾して喜びたい人達は、インターネットやSNSでの炎上騒ぎが大好物です。彼等や彼女等は「何らかの理由で今すでに袋叩きされている人」を見つけると喜んで集まってきて集団リンチに参加します。彼等や彼女等はその恥ずべき行為を「正義」だと思い込んでいます。自分は悪い人を懲らしめる作業に協力したのだと本気で思っているのです。実際には彼等や彼女等が行った行為は「反撃できない相手に向かって安全な場所から一方的に攻撃を加えて、相手とは無関係の自分個人のストレスを解消する」という卑劣な行為なのですが、彼等や彼女等は自らの醜さに気づいていないどころか良いことをしたつもりでいるわけです。

 

インターネットやSNSで袋叩きにされたくないと思うとスキを与えないように気をつけなくてはいけませんから、被災地で軽率な言動や尊大と思われてしまうような発言は控えなくてはいけません。そのため「逆にこっちが元気をもらった」と言うしかなくなるわけです。

現在の日本ではこうやって互いに互いの行動の自由を縛りあう傾向が強くなりつつあります。

特に若い世代ほどその傾向が顕著で、10代20代の若者達は群れからはぐれて袋叩きされる側になってしまうことを異常なまでに怖れています。お互いがお互いの顔色をうかがい、空気を読みあって、空気を読みきれていない人を見つけるとあうんの呼吸で袋叩きにします。

 

30代や40代、あるいはそれより年配の人にとって、インターネット上で炎上することは不快なことではありますが、それほど恐怖を感じるようなことではありません。もしブログのコメント欄が炎上したら、コメント欄を見ないようにするかコメント欄を閉鎖するかブログ自体を削除するか、いずれにしても炎上騒ぎが実生活に影響を与えることはまずありません。一方で10代や20代の若者は、各種SNSによって友人や知り合いとつながっています。彼等や彼女等は地元の知り合いとも学生時代の友人とも職場の同僚ともSNSを通してつながり続けています。この世代の人がインターネット上で炎上すると、その不名誉な事実と炎上の原因はSNSを通してすべての知り合いに筒抜けになります。少数の親友と深い友人関係を築いてきた世代には理解しにくいかもしれませんが、SNSを通してたくさんの人と薄く広く友人関係を築いている世代にとってインターネット上の世界と現実の世界はひとつのものなのです。

30代以上の人の感覚では、小学校や中学校のような閉鎖された空間で生きている子供達が嫌われ者になることを怖れる気持ちは分かります。しかし世界の広さを知った20代の若者が嫌われ者にならないことを最優先事項だと考えている姿は異常に映ります。ところが現実に、10代や20代の若者はSNSでつながってしまっているがために大人になっても小学校や中学校のような閉鎖された世界から抜け出せないでいるのです。仮に自分一人がSNSをやめてしまっても、自分の知り合い達がSNS上で自分の情報をすべて持っているわけですから状況は変わりません。もし変なあだ名をつけられるような失態を犯したら、もし無様なフラれ方をしてしまったら、そういった恥ずかしい情報はこれから先もずっと知り合い達に共有され続けることになります。過去の知り合いだけではなく、これから知り合う人達に過去の失態を共有されてしまう可能性すらあるわけです。彼等や彼女等にとって世界はとても狭くとても息苦しく、少しの過ちも犯してはいけない場所なのです。

 

インターネットやSNSの普及は、日本人の国民性のよくない部分をよりいっそう濃くしつつあります。特にインターネットやSNSと共に成長してきた若い世代にその傾向が顕著です。

普段はお互いに空気を読みあい気をつかいあいます。波風が立つようなことはできるだけ避けて、少々のことはうやむやにして済ませてしまいます。そうやって溜め込んだ鬱憤は「批判されている人」を見つけた時にまとめて吐き出されます。特に、直接に接する人に気をつかいすぎている反動で匿名になった時には別人のように汚い言葉を投げつけます。同時に、目に見える範囲の小さなコミュニティーの中で空気を読みすぎている反動で、想像力の枠を超えるほど大きなコミュニティーではまったく空気を読もうとしません。(たとえば彼等や彼女等は、学校や職場といった小さなコミュニティーの中では必要以上に気をつかいあいますが、国と国との外交といった大きな話になると国際社会の空気を読もうとはしません。)

 

場の空気を読めるのは日本人の長所でもありますが、行き過ぎると「空気を読まなくてはならない」状況を招きますし、最終的には「うかつに本音を語れない」社会になってしまいます。現実に、日本の社会は徐々に息苦しくなりつつあります。このままの状況を放置すれば、戦中の日本のような誰も本音を口に出せない状況に陥る可能性も否定できません。

 

自分よりも若年の人に向かって「最近の若者はなさけない」と言いたがる人はどの世代にも一定数いますが、この話に関してはこういった指摘はあてはまりません。

というのも、昭和の農村のムラ社会に嫌気がさして都会に出た人は「濃密なつながりのある社会を拒否してつながりの薄い世界を選択した」わけですが、実際にはそれは個人の力だけで選択できることではありませんでした。社会全体が貧困から抜け出すと個人のプライバシーを守るだけの経済的余裕がうまれます。結果として個人主義的でつながりの薄い社会になっていきます。ちょうどその時期に若者であった人達はその流れに乗れたということであって、自力だけでそれを選択できたわけではありません。

インターネットやSNSが普及すると、SNSを介してつながりがうまれます。結果としてムラ社会的な、孤立しにくいかわりに息苦しい社会になっていきます。ちょうどその時期に若者である人達はその流れに逆らうことができません。どの世代の若者は気骨があったとかなさけないとかという話ではありません。

 

今後もおそらく、人々が孤立し過ぎたことへの反省から「人と人とのつながり」が強くなっていく流れはゆっくりと進むものと思われます。それは、互いに監視しあって足を引っ張り合う息苦しい世界になっていくということでもあります。我々にできることは、これから先さらに息苦しくなっていくであろう日本の社会を少しでもマシな社会にするよう努力することだけです。

まずは若者達に「すでに攻撃されている人を一緒になって攻撃する」ことが恥ずべき行為でなさけないことだと理解してもらうことができたら、彼等や彼女等が感じている息苦しさも少しは緩和されるのではないでしょうか。

 

◇ 日本の起業率が上がらない理由

少年野球チームの四番バッターA君はある日の試合で監督からの送りバントのサインを無視して打ちました。結果はヒットでした。試合には勝ちましたが試合後、監督はA君を強くしかりました。

これは私が中学生の時に道徳の授業で読まされた教材の中身です。この教材の内容が意味するところは、「協調することやあらかじめ決められたルールを守ることの大切さ」を学ばせるというところにあります。

 

日本の社会に起業家が育ちにくい理由は、ここに凝縮されています。

A君があらかじめ決められたルールに従って送りバントをしていれば、試合に勝っても負けてもA君は何の責任も負いません。監督はセオリー通りにサインを出し、選手は全員がサインに従います。その結果が負けであった場合、敗戦の責任を誰ひとり負うことがありません。そしてこのチームは何の反省もなく次の試合に臨みます。会社にしろ役所にしろ、日本の組織が腐っていく時のメカニズムがまさにこれです。東京電力の役員は前任者から引き継いだ仕事を前例に倣ってこなしていきます。東京電力の従業員は役員の指示に従います。原子力発電所で深刻な事故が起こっても、彼等は責任を負おうとしませんし責任を感じてもいません。送りバントを決めた選手が敗戦の責任を感じないのと同じメカニズムで、指示に従うだけの東京電力の社員は原子力発電所での事故に責任を感じません。

 

こういうろくでもないことを教えているかぎり、日本で起業家はなかなか育ちません。学校で教えられたことにも社会の常識にも多くの間違いが含まれているから常に自分の頭で考えながら生きるべきなのだ、と気づいた人だけが起業家になります。それでは起業家はごく少数しかうまれません。

 

起業率を高めたいのであれば、送りバントを決めるのが一番よいことだという間違えた認識を改めなくてはいけません。

A君の置かれた状況で、最も素晴らしいのは「監督のサインを無視してヒットを打つ」ことです。次によいのが「監督のサイン通り送りバントを決めること」その次が「送りバントを失敗すること」最も悪いのが「監督のサインを無視したのに打てないこと」だと教えるべきです。

リスクを犯す時には、すべての責任を負わなくてはいけません。結果を出せないならリスクを負ってはいけませんし、リスクを負ったからにはなにがなんでも結果を出さなくてはいけません。そこまでしてリスクを負えない人は無難にリスクを負わない選択肢を選べばよいのですが、リスクを負って戦う人がいるおかげで自分みたいな人間にも居場所があるのだという現実を知らなくてはいけません。もちろんリスクを負いたがるタイプの人ばかりでも組織や社会は成り立ちません。しかしリスクを負いたがる人を異分子として排除してしまうと、その組織は腐敗しますしそういう社会は発展しようがありません。リスクを負わずにこつこつと組織を支える人がいるからリスクを負いたがる我の強い人が生きていられるのは事実ですが、そういうタイプの人がいるからリスクを負わない人が生きていられるのも事実です。彼らは我が強いですから「野球は一人でもできるんや」なんて江夏みたいなことを言うかもしれませんが、そういう人を排除しない社会にしなくては起業家は増えません。

根本的な部分を変えずに、政府が起業率上昇のために予算だけつけても効果はありません。ひとりひとりの意識や社会の常識が変わらないかぎり日本の起業率の低さは変わりません。大成功して調子にのっている起業家を見て、嫉妬とか憎しみとかを感じる人が多い社会では起業家は育ちません。大成功して調子にのっている起業家を見て、いつか自分の子や孫があちらの立場に立つこともありえるのだから暖かい目で見てやろうと思える人が多い社会になれば起業率はおのずとあがることでしょう。

 

あなたが愛に満たされていない理由

世の中は「底の浅い偽善」であふれています。いっそ誰にもバレないくらいのよくできた偽善なら誰の迷惑にもならないのかもしれませんが、底の浅い偽善はすぐに矛盾に行きあたりますから多くの人の迷惑になります。浅い偽善が特に迷惑になるのは、偽善が破綻してもなお偽善的な姿勢を保とうとする時です。

 

繁華街で立ち止まって、街行く人々を眺めてみてください。行き交う人々の中に美男美女は少数で、美男美女とは言えない人の方が多いことがすぐに分かるはずです。それどころか美男美女の基準から大きくかけ離れている人も少なくありません。

異性との間に愛を育んでみたり、ちょっとしたきっかけで別れてみたり、すぐに別の異性との間に今度こそ真実の愛を見つたと言い出してみたり、と思ったらやっぱりすぐに別れてみたり、といったような作業から人は多少の幸せを感じることができます。たとえばそういった作業を好む恋愛体質の女性が「私って男運がないのよねぇ」といったことをつぶやく時、彼女には反省している様子はほとんど見て取れず、むしろそんな発言をしている自分に酔っているふしがあります。彼女等はその不毛な作業を幸せな出来事と受け止めているのでしょう。

 

恋愛市場の中で買ったり売ったり買われたりする人達は、その作業のむなしさに気づくまではそれなりに楽しそうに生きています。恋愛市場の中で買ったり売ったり買われたりする喜びも一時しのぎでしかありませんから、そういった作業を好む側の人達も遅かれ早かれ根本的な矛盾にぶちあたるのです。

恋愛市場で相手にされない美男美女の基準から大きくはずれた人達のことをみていきましょう。彼等や彼女等はいかに自分を売ろうとしても買われることはなく、それならば勇気を出してこちらから買おうとしても相手にされません。

 

「愛というのは素晴らしいものだ」という浅い嘘があります。その嘘を信じてしまった人は当然「愛という素晴らしいもの」を手に入れようとします。しかし手に入れることができない人は現実にたくさん存在します。そして、どうしてもそれを手に入れられない人は自分を不幸だと思い始めてしまいます。「愛というのは素晴らしいものだ」と信じてしまうと「愛さえあれば幸せで、それはどうしても必要なものなのだ」ということになってしまいますし、同時に「どうしても必要な愛を手に入れられないということはとびきり不幸なことなのだ」ということになってしまうからです。

 

それでもなお、底の浅い偽善の側は「そんなあなたの不幸も素晴らしい愛の力で解決されるはずだ」とか「あなたもいつかきっとあなたにふさわしい相手と出会って愛を育むはずだ」とかと無責任なことを言い続けます。異性から一度も愛されないまま中年になってしまった人達がたくさん存在するという現実を無視して、どこまでも安っぽい偽善をふりかざすのです。

 

世の中には、親の愛を一度も受けずに施設で育つ人もいます。異性から一度も愛されずに中年になってしまった人もいます。そういう人達に向かって「愛っていうのは素晴らしいものですよ」と言うのが残酷なことなのだ、ということにそろそろ気づくべきではないでしょうか。